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犬死とは何か [社会]

終戦記念日頃にネットで盛り上がった議論なので、その時に書きたかったが仕事が一番きつい時期でまとめる心の余裕がなかったので今書く。

テーマは「『英霊に感謝すべき』って右の人たちは言うけど、本当にそうなのか?」

今の平和と繁栄は戦争で死んでいった可哀想な兵隊さんたちのおかげなのか?死んでいった兵隊さんたちの恩恵って何かあるのか?犬死ではないのか?


例えばこういう言い方をする人がある。


こういうのは「論理的には犬死に反論ないけど、かわいそうだし失礼だから犬死呼ばわりはやめよう」という、言わば精神論である。右寄りの人は精神論大好きである。佐々木俊尚氏が特別ネトウヨだとは思わないが、そんな氏にしても発言が右に傾けば精神論臭くなる好例といえよう。ここでは精神論で議論はしたくない。上記のような発言は無視していい。


普通に考えれば負け戦で死んだ人はみんな犬死。恩恵などない。勝ってこその感謝である。なぜなら負けた戦争はやらない方がよかった戦争だから。やらない方がよかった戦争で死んだ人は無駄死にである。普通に考えて。


普通に考えればそうなのだが、歴史は複雑であり、一筋縄ではいかない。普通に考えればいいというものではない。ここが難しい。

ここでよく右の人が例に出すのがフィンランド冬戦争である。圧倒的な軍事力差があり、勝ち目のない戦争だったが、粘り強く抵抗したことにより、独立を維持できたというものである。負けた戦争でもやらない方がマシとは言えない例として挙げられる。


また、経済封鎖などで当時日本は戦争に参加する以外の選択肢がなかった、参戦は不可抗力だったという話もそれなりに説得力がある。では、戦争しなかったほうが今よりひどくなってたのだろうか?負けたのに?わからない!


それらのことを考え合わせると「負けたから犬死だ」とは一概に言えなくなる。負けたけどやったほうがよかった戦争なのかもしれない。どうなのか?結論を出すのは不可能だ。歴史は複雑だから「もし○○だったら?」をあまり厳密に突き詰めて何かを断言することは出来ないのだ。バタフライ効果って言葉もあるように。「やらない方がよかった」という断言がしづらくなってきた。「負けたけどやった方がよかったかもしれない」可能性もあるような気もしてくる。じゃあ何も言えないのか?


そんな時は始めたときの国民や偉い人達の気持ちを考えればいいだろう。「負けるかもしれないけど、やらないより、やった方がマシ」「多分負けるだろうけど、他に選択肢はない」そういう認識がアメリカに宣戦する時にあったかどうかだ。そんな悲壮な決意が上層部にあり、国民間にムードとして漂ってたのなら、結果的に負けたとしても、死んでいった兵士たちに感謝、敬意が自然と生まれてくる。そうじゃなくて絶対勝てるつもりだし、勝った上での展望しかもってなかったのなら、死んでいった兵士たちに向ける感情は単なる憐憫、同情以外のものはなくなる。「勝つ気満々だったけど、負けた。でも結果的にはやった方がよかった」などという論法は、説得力ないだろう。真なる可能性がゼロだとは言わないが。


さて、どうだろう。大戦初期に「負けるかもしれないけど、やった方がいい。やるしかない」という強い主張が公民やお偉い方々にあっただろうか?支配していただろうか?ムードとして漂っていただろうか?今のところ俺には逆の情報しかないけど。



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