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爆発記念日に寄せて(後編)

 さて、前回は「危険煽り派」が科学を装って垂れ流す言説は、初歩的知識でも突っ込めるタワゴトばかりの一例を示しつつ、そうはいっても認識論的に懐疑すれば、何だって「捏造だ 御用だ」と言えてしまう危うさについて述べた。科学的に何かを述べるには基本、権威の受容から出発しなくてはならないのだが、実はそうでない科学のジャンルもある。そう、数学である。3+4が7であるのは何ら権威の受容と関係がない。思考のみが真偽を判定する世界である。

 チェルノブイリ後にベストセラーとなった広瀬隆の「危険な話」には「内部被曝は外部被曝の数億倍、数兆倍」という話が出てくる。細胞が放射性物質に近づくほど受ける影響は距離の二乗に反比例するので、距離が半分になれば4倍、その半分で16倍・・・内部被曝では放射性原子が細胞に接するところまで行くのでその効果たるや外部被曝の数億倍、数兆倍、距離0で無限大に拡散というまことに恐ろしい話である。大体反原発的な人が「外部被曝、内部被曝」を語り出すときはその話がベースになっている。内部被曝が外部被曝とはまた別な注意が必要なことは俺も同意する。だが、数億倍?数兆倍?・・・無限へと拡散・・・????

 学校の授業でも趣味の読書でもいいから、少しでも物理に接したことがある人なら、何かエネルギーを出してる線源があって、それにどんどん近づくと、受けるエネルギー(=ダメージ)が無限大まで拡散するなんて聞くと「え?」と耳を疑うだろう。発するエネルギーは有限なのに、受け取る側が無限大に効果を取り出せるなんて、永久機関の一つや二つ簡単に作れそうである。

 プルトニウム239の半減期は2万4千年。つまり体内にプルトニウム239が侵入すると2万4千年以内にアルファ粒子を一個放つ確率が50パーセントである。原子一個ぐらい体内に摂取しても何の問題もなさそうだが、細胞に接触したらダメージ無限大だという。不思議な話だと思わないかい?

 実はそこにはトリックがあるのである。中学校か、せいぜい高校一年レベルの数学で見破れる安いトリックが。
まず、「2乗に反比例」というのが数学的に正確な表現ではない。もう少しマシな表現にすると、「十分な距離があれば、2乗に反比例に近似値的になる」である。距離が近いと、全く成立しない。

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 まず、とある放射性原子に掌を近づけていく思考実験をしてみよう。放たれるエネルギーは熱とする。熱源に掌が触れたとき、掌は溶けてしまうだろうか?熱源が1分にNカロリーの熱を放つとき、掌はその何分の一かを受け取るであろう(図1)。握り拳を作ったりしない限り、掌は最大でN/2の熱を受け取る。これが掌が原子に触れたときで、掌の反対側にも熱が放たれるからNにはならないし、Nより大きくもならない。無限大にもならない。
 指先と手首と熱源が正三角形を描く距離の時、つまり60°掌がカバーするとき、平面上では60°/360°で、N/6のエネルギーを受け取る(図3)。90°になるとき、N/4を受け取る(図4)。立体だとどのくらい受け取るのか分からないが、N/4になる距離は必ず存在するだろう。じゃあ距離を半分にすればN/2になるか?ならない。N/4とN/2の間の値になるはずである。何しろ接してないのだから(図5)。

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 掌が熱源からある距離にあり、Pのエネルギーを受け取ってるとしよう。掌を距離が半分になるまで近づけると、掌の中央の部分の1/4の面積でさっき受けた分と同じ熱量を受け取る(図6)。では、掌全体でさっきの4倍の熱量を受け取るだろうか?4Pを受け取るだろうか?受け取らない。理由は、端に行くにつれて角度が急だから。ものすごくでかい紙を電球に近づけてみよう。端っこが真ん中より暗くなるだろ(図7)?均等じゃないんだよ。均等になるのは、紙が電球から遠いときだよ(といっても、均等に近づくだけで完全に均等にはならない(図8))。
 実際に計算すると難しいが、中学から高一の数学レベルで大体理解できる話である。ただ、「ちょっと待て」って気づいて考える暇は必要だ。さっと読んだだけでは騙されてしまうたちの悪いトリックだ。

 そんなわけで、「危険煽り派」が安い科学トリックで科学に疎くて興味もない一般市民を騙そうとしてるってことが分かったと思う。だが、俺は「もっと科学的にものごとをとらえよう」なんてメッセージするつもりもない。何故なら俺は科学とか読書とか無縁な人間の味方だから。俺が気づいたのはたまたま暇があったから。だからこいう言う。

科学なんて、権威を受け入れてればいいんだよ

 「危険煽り派」が提唱するような「オルタナティブな科学」(科学によく似た低次元なタワゴト)に身を委ねるのは危険極まりない。

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爆発記念日によせて(前編) [社会]

「福島に住むのは危険です!一刻も早く避難してください!」

「避難してきましたよ」

「キャー!ピカがうつる!近寄らないで!」

 

 http://takedanet.com/archives/1013802442.html

 武田邦彦先生によれば今月中に日本に住めなくなる日が来るらしい。この予想が当たるか外れるかは分からないが、当たるにしろ外れるにしろ、「住めなくなる」と断言した人間が来月も日本に住み続けるなんて論理的にあり得ないので、来月には武田邦彦もその信者も日本にはいないことは間違いない。いけしゃあしゃあとさんまの番組とかに出るなよ

 そんなわけで、原発事故後に極端に危険を煽る発言が横行したが、彼らの情報源をたどると、武田邦彦やら上杉隆やらマヌケな発言をするやつらとか、怪しい商売をするやつら(クリス・バズビー)ばかりにいきあたり、そいつらの発言の整合性をしっかり観察すれば極端な危険派にはならないですむわけだが、まあ日々そんなに暇じゃなければ注意深く検証する暇もなく、騙されてしまう人もいるかも知れない。

 恐ろしい健康被害が出るという人と、そんなには出ないだろうという人、実際どちらが科学的なのか?ある場では預託実効線量がどうのLNT仮説がどうの線量率効果がどうの難しい議論がなされていて、もともと理系的素養があるかちょっとは勉強するかしないと議論に参加できない。日々忙しい人は教養を深める暇もなく、マヌケな発言者に騙されてしまうかも知れない。

 

だが、常識レベルで判定できることもある。それをこれから書いてみよう。

 

 例えば反原発の人がよく言う「同じ線量でも自然由来の放射線の方が人工放射線よりリスクが少ない」というもの。「養殖の魚より天然の方が栄養がたっぷりで美味しい」みたいなニュアンスが感じられ、エコ好きな奥様とかは騙されてしまいそうだ。だが、魚と放射線は違うのである。アルファ線はヘリウム原子核と同じ陽子と中性子2個ずつの粒子、ベータ線は電子、ガンマ線は可視光線と同じ仲間の電磁波。こういったものは魚や野菜のように、複雑な内部組織を持たない。個体ごとにみんな少しずつ違うような個性をもたない。波長であるとか運動量であるとか、限定された変数で性質はみんな一様に決まってしまい、例えば電子一個といったとき発生源が天然とか人工とか関係ない。そんなのは物理の基本であり、これが違うなら20世紀の物理学の成果が根底からくつがえされる。コペルニクスクラスの大変革がおこるような大胆な意見である。技術体系もくつがえるので、人工衛星は落ちてくるかも知れないし、ケータイは明日から使えなくなるかも知れない。

 

 だから「自然由来の方がマシ」なんて聞くと、中高の理科で平均レベルの点数を取ってた人や、科学の本を興味持ってよんだりしたことが一回でもあるような人なら「え?」って耳を疑ってしまうわけだが、もしかしたら反原発の人はそのくらいの「コペルニクスクラスの大変革」があり得ると思ってるかも知れない。あるいは、中高の理科の教科書レベルから御用学者の捏造で事実がねじ曲げられていると考えてるかも知れない。原発から利権を得ている御用学者が理科の教科書まで書き換えてるなんて常識的にはにわかには信じがたいが、この疑いは実は意外に根深く、根底的な反論が難しい。

 

 例えば、光の速度は毎秒30万km程度と科学の本に書いてある。これはマイケルソン・モーリーの実験で計測され、何度も追試され、いろんな観測事実と照合され、最早それが否定されるといろんなことが根底からくつがえされる前提的な真理のように扱われているが、我々のほとんどはマイケルソン・モーリーの実験を目撃などしてないのである。「じゃあやってみよう」と言われて目の前で展開されても、我々には何が起きたのか分からないし、機械の構造とかいくらでも疑う余地はある。計測機械の一つ一つについて一からつくるところから実験の全貌を見届けて、騙しがないかどうか完全にチェックすることは科学者でも不可能。科学に関して言えば、誰か知らない人が発見したことになっている観測やら法則やらを受け入れるしかない。つまり、権威を受け入れるところから始まるのである。疑い出せばいくらでも疑えるのである。

 

 学界でもはやゆるぎないものとされている前提的な定説でも、そこには「権威の受容」という怪しい基盤があり、そこを突けばいくらでも「捏造だ 利権だ 御用だ」と言えてしまう。理科の初歩知識でつっこめるタワゴトでも本気で信じてる人を動かすのは難しいのである。

 

 じゃあ、どうするか?御用だなんだというもはや認識論レベルの疑いの余地が入らない科学的つっこみは可能なのか?

 

 可能である。これについては長くなったので次回に続く!

 



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音痴に関する恐るべき事実 [活動記録]

 ミュージカル劇団だし、ライブっぽいこともやるので、稽古場では歌を作ってきて「こう歌うんだよ」と指導するということをしょっちゅう行ってるわけだが、当然すぐ習得する人となかなか身につかない人と差が出る。
 下手な人のレベルはこういっちゃあなんだが、毎回ビックリする。例えば「やまだ」という歌詞があって、全部音が「ラ・ラ・ラ」だとする。何かの理由で間違って伝わって、「ラ・ラ・ド」と最後の音を上げて歌ってしまっているメンバーがいる。「や」と「ま」はちゃんと歌えているので、当然、「『だ』は前の音と同じ音だよ」と教える。ところがある者はもうここで脱落する。「歌詞が違うのに同じ高さの音を出す」というハードルを越えられないのだ。
 あるいは、欲しい音と違う高さの音で歌ってくるので「もうちょっと上げて」とか「下げて」とか言う。これが「短3度あげて」とかだったらやはりそれなりに訓練された人じゃないと対応できないだろう。だが、それ以前の段階で「上げて」「下げて」でつまづく。言われてもきょとんとしている。「今出した音より、ちょっとかいっぱいか分からないけど、とりあえず高い音」という概念がそもそもないようだ。音程変えずに声色だけ変わったりして時に面白い。
 そういう方はだいたい和音の概念がないので、伴奏のコードにない音を平気で出してくる。伴奏は三和音なのに主音の半音下の音とか出してきて、聞いてるとぞわぞわしてくる。歌ってて気持ち悪くないのかと、思うが和音の概念がないと平気みたい。伴奏が3和音出してるとき、主音の半音下の音で歌うとメジャーセブンスになり、単純に3和音後ろでなってるときにメジャーセブンスかぶせるという、逆にある意味レベルが高くないと出来ないことを平気でやってのけるのである。
 で、まああれこれ苦労してなんとか時々外しながらも歌えるようになったとする。で、「キーがちょっと苦しそうだな」と思ったりして、翌日にはキーをちょっと上げたり下げたりした伴奏を作ってくる。そうすると、すごいことが起こる。なかなか歌えなかった人に限って新たに作ったキーとかお構いなしに前の音程のままで前と同様にちょっと外したりしながら歌うのである!
 俺は逆に絶対音感とかなくて、キーとか変えられても気づかずそのキーで歌ってしまうので、驚いてしまう。伴奏との関係である高さの声を出すのでなく、絶対的な音の高さで歌を覚えようとしてるなら、そりゃー歌を覚えるのも大変だろうなと思う。立ち向かってるレベルが高すぎるよ!
 コードの感覚は訓練次第で身につく。小学校の頃「ドミソ、ドファラ、シレソ」をピアノで先生がならして、どの和音か当てるっていうのをやって俺は平均以下だったが、今そんなのやってもきっと外すことはない(複雑な和音だと自信ないけど)。メンバーの皆さんがんばって下さい。
 なんて俺らしくもない前向きな励まし書いちゃったけど、絶対音感ってのは神から選ばれたエリートだけに備わった希有の能力だと思ってたし、世間でも絶対音感なんて聞くとなかなか手に入らない強力な武器ってことになってるが、そうではなく、音痴、歌のうまい人関係なくある程度備わってたり、備わってなかったりしていることが分かったのである。
 まあ俺なんかが作るレベルの曲は絶対音感とか逆にじゃまなので、いったん忘れて(無理か?)コードの感覚を身につけて下さい。むしろ。


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