SSブログ

純文学なんぞに興味はないけれど [文化]

これを読んでいるみんなはわかってると思うが、俺の基本姿勢はアンチインテリなので、純文学なんぞに興味はない。ドカタでも理解出来るわかりやすいエンターテイメントのみを支持し、基本小説なんて読まないが、たまに読むとしてもミステリーとかSFとかエンタメ度の高いものばかりである。


ただピース又吉の作品が本当に純文学なのかどうか気になる。野次馬的に。野次馬的だから読まない。まあ、ある作品が純文学かどうか読んだところで俺には分からないけどね。


 


スピリッツ誌で「花火」のマンガ化したやつが連載されていたが、マンガのくせに文字だらけ。しかも内面の吐露ばかりで


「タルいなー」


という印象しかなく、楽しめなかったが、その楽しめなさこそが逆に純文学なのかなー、と思わせた。まあマンガ家が下手くそなだけかもしれないが(たとえ純文学じゃなくても小説内に書かれている内面吐露をそのまま文字に起こせば、そりゃーマンガとしてダメなものになるに決まってる)。


 


そこでこの記事


https://trilltrill.jp/articles/472384


作家の湊かなえ氏が押切もえのノミネートに不満を漏らした。漏らしついでに又吉氏のことも引き合いに出した。それに乗っかる形で筒井康隆氏は押切もえを「女又吉」と批判。


作家としてのプライドが強い反感を引き出したのだろう。「タレントの余興と一緒くたにするな」と。


湊かなえ氏の作品は「告白」しか読んだことないけど面白かったなー。夢中になって一気に読んだ。ちなみに純文学とは思わなかった。優れたエンタメだと思った。だって難しくないもん。インテリにしかわからないような作品じゃないもん。


だからプライドっつってもエンタメ作家としてのプライドなんだろうけどね。純文学側からのダメ出しではない。


 


ただし、出版界は近年凋落の傾向にあり、特に文学の売り上げの落ち込みが激しいという。そんな中、タレント本で話題を作り凋落を回避できればという政治的理由が文学賞の選考過程に持ち込まれればそりゃあまじめに小説書いてる人は気分良くないだろう。たとえエンタメ系だろうと。


じゃー湊かなえさんみたいなエンタメ作家(褒めてます)ではなく、本格的に純文学側の人は又吉の活躍をどう思ってるのか?エンタメ作家以上に怒ってるのか?タレントの余興を話題作りで持ち上げてると強く批判しているか?


 


純文学にあまり詳しくない俺の知識の中でエンタメの匂いのしない純文学作家として真っ先に脳裏に浮かんだのは古井由吉という名前だった。まだ俺も若くてインテリっぽいものを今ほど拒否してなくて「たまには難しい本を読んで頭よくなろう」などと思っていた時期一番難しいと思った小説が古井由吉の「杳子」だった(他にも難しい小説などいろいろあると思うが、知らない)。まさに内面ばかり。しかも感情移入させてはくれない病的な内面展開。まさにエンタメの対極である(あくまで俺の印象だけどね)。


 


で、早速「古井由吉 又吉直樹」で検索すると、なんと古井氏、又吉を褒めているではないか!


 


https://matome.naver.jp/odai/2146345337807803701


実は湊氏、辛口コメントの直後には押切もえの受賞を歓迎するコメントに切り替わっていて、やはりエンタメ作家は、売れてナンボ、稼いでナンボ。出版界の政治力学には逆らえないんだなーと、思ってしまうが、非エンタメ界の重鎮古井由吉氏にそんな力学が作用するわけない。きっと本気で褒めているのだろう。


 


というわけで純文学中の純文学、古井由吉が褒めたので又吉直樹の純文学性も本物!話題作りのためのインチキ受賞ではないという結論が俺の中で出た。俺の野次馬的疑問は解消された。


 


え?あっさり解決しすぎるって?すみません、本格インテリじゃないのでこのくらいの調査が限度です。あの作家が褒めてたとか、あの作家がけなしてたとか情報があったらお知らせください。野次馬的的興味でにお待ちしてます。


 


 


押切もえがどんな作品を書くのかは又吉以上に興味ない。水嶋ヒロも興味ない


「グレイテスト・ショーマン」と俺 [文化]

ウルヴァリン 髭を剃ったら アイアンマン


俺にとってヒュー・ジャックマンと言えばウルヴァリンで、あのヒゲがトレードマークだったんだけど、あれはコミックキャラのトレードマークであり、ヒュー・ジャックマンが元々ああいう人ってわけじゃないんだよなー。今回ヒゲ抜きのヒュー・ジャックマン初めて観たんだけど、ロバート・ダウニーJr.と区別がつかない顔だと思った。共演じゃなくてよかったなー。これは両者が似ているってわけじゃなく、おれがそもそも外人の顔を見分けるのが苦手(実は日本人も苦手だが、外人になるとひどくなる。多分脳の何らかの病気)ってことによる。


そんなヒゲ抜きのヒュー・ジャックマンが主演するミュージカル映画「グレイテスト・ショーマン」を観た。ヒュー・ジャックマンが、サーカス団をきりもりする話。サーカス団って言っても、そこに集まってるのは、ヒゲ女、コビト、巨人、シャム双生児で、サイドショー的側面を持つ。日本のテレビで放映できんのかこれ?

つまり、見世物とミュージカルが2大要素として展開する映画である。ちなみに見世物小屋をプロデュースし、ミュージカル公演をプロデュースする人間といえば日本には俺ただ一人しかいない。俺のために作った映画かと思ったぜ。


主人公はサーカス(見世物)興行を成功させて金持ちになるが、高尚ぶった評論家には「低俗」と酷評され、街の一部の人たちの反感を買い、「下品だ。街から出て行け」てな感じの排斥運動が起こる。なんか他人事じゃないなー。って思った。俺は金持ちでも人気者でもないけど。


街の反対派の排斥運動見てたら、俺の運営する見世物小屋に動物愛度団体が乗り込んできて「蛇食いやめろー。動物虐待するなー」って訴えてきた過去の事件を思い出したんだ。警察連れて来て「これは犯罪ですね。今度やったら逮捕します」とまで言わせたので、俺の見世物小屋から蛇女の出し物はその日からなくなってしまった。


ちなみにこの映画はP.T.バーナムという実在の人物の伝記映画である。実話を元にしているのである。19世紀に見世物とサーカスと動物園が合体した興行団体をつくり、アメリカ中を巡業して成功をおさめたそうな。で、この人の作ったサーカス団はフリークスこそいないが、つい最近までリングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカスという最も著名な巡業サーカス団として活動中だったらしい。




調べると、人気の出し物だったゾウのショーの廃止を発表。そしたら人気が落ちてサーカス団の解散に至ってしまった。そして去年の5月に最終公演が行われたとのこと。そしてゾウのショーの廃止の理由の1つは動物愛度団体からの批判だというではないか!


このような背景がこの映画がつくられたきっかけになっているとしたら、ますます感慨深いなー。観た人は分かるかもしれないけど、ハッピーエンドなのにあの出だしの「もう終わっちゃった」感とか、意味深に思える。


そんなわけで他人事とは思えない映画を観た話をしました。ミュージカルシーンは、めちゃくちゃ派手ってわけじゃないけど、小道具をうまく使ったり、アクロバティックな体勢で歌ってたりひとつひとつ工夫が込められていて楽しいのでおすすめです。興味を持った方は是非。


相撲を滅ぼさないために(滅んでも別にいいけど) [文化]

日本語カタコトの外人たちが、上位を独占し優勝を争う、そんな国技見て楽しいかい?


日馬富士だの白鵬だの貴乃花親方だの、去年からいろいろと話題だけど、そもそも今相撲って人気あるのかね?上位ほとんど外人だろ?国技としてどうなのよ、それ。


野球は1チーム何人とか外人枠が設定されているが、相撲はどうなのか?調べてみると、かつては外人枠などなく無制限だったが、外人が上位ランクにどんどん進出してくるのでさすがに90年代初頭から制限を設け出たらしい。さらには、単に「外人枠」とすると、「相撲のために日本国籍を取得した生まれも育ちも外国の人」がどんどん入ってきてしまうので、「外人枠」を「外国で生まれ育った人」枠に設定替えするとかいたちごっこが展開されているらしい。おもしれえな。

そもそも何で外人が入ってきてしまうのか?恐らくどの部屋の親方も「日本の相撲をさらにハイレベルにし、盛んにするため外国人力士を積極的に起用するのが望ましい」なんて思ってないはずだ。外人など少ないほうが国技らしくていいと思ってると思う。なら何故起用するのか?他の部屋が強い外人を呼ぶかもしれないから、自分が呼ばないと損するから呼ぶのだ。これはまるで囚人のジレンマである。囚人のジレンマ、つまり全体を良くする選択肢があっても、自分だけが損する可能性があると、全体としては悪い方向に進むけど自分の損が少ない選択肢を選んでしまうというジレンマ。協力より裏切りを人は選んでしまうのだ。


外国人力士の態度やら戦い方やら問題とされているけど、まあ相撲の将来に向けての選択肢は2つしかないだろうな。


1つは潔く無制限に国際化する。どんどん外人を入れる。ランク上位に日本人は殆どいなくなり、国技としての体裁を保てなくなるだろうな。ならば、国技であることをやめ、純粋に近代スポーツとして認めなおせばいい。当然弓取り式やったり、マゲ結ったり、マワシ締めたりは廃止な。儀式的なものは全て廃止だ。それでもかつては国技であったものが世界的に人気のスポーツとして認められれば、「日本スゴイ」を言い続けたい愛国者の皆様も別に不愉快な事態にはならないだろう。もちろん女性力士の参入も認められるべき。


もう1つは、外人の完全排除だ。差別的と言われるかもしれないが、儀式、神事なのでしょうがない。


このどっちか2つの選択肢を選ばないかぎりは、現在の状況がさらに進み、相撲の人気は先細り的に衰退し、相撲は滅んでしまうだろう。


まあ、俺は別に滅んでもいいけど。相撲見てないし

俺は本当は下品の味方じゃないのかもしれない。 [文化]

「下品大好き」「下品の味方」と事あるごとに叫び続けて幾十年な俺だが、「本当は下品の味方じゃないんじゃないか?」と不安になる時がある。

「サブカル気取って『下品好き』って言ってるだけで、本当はきらいなんじゃないの?」

一番言われたくない言葉だが、あることを指摘されると反論できなくなる。つらい。

TVタレントの中には下品や下ネタを売りにしている人も多いが、別に下品を売りにしているわけじゃなく、下ネタもそうは言わないけど極めて下品!存在そのものが下品だから別にシモネタとか言わなくても十分下品。下品オーラが爆発!というタイプがいる。


具体的に言えばヒロミである。そして昔の話をすればクワマンである。


別にシモネタとかガンガン言うわけじゃない。だから何で彼らが下品なのかはっきり言って言葉でうまく説明することは難しい。存在そのものが下品だから容姿からやることなすこと全部下品な印象しか与えない、としか言えない。

そんな下品のプロフェッショナル、下品の王様を俺は大好きか?といえば嫌いである。それで「人一倍下品好き」って自認できるのか?自認していいのか?自信を大いに失う。


先の24時間TVでは、千葉の僻地の寂れた駅を一生懸命改装して、地元の子供たちに大喜びされ本人もスタジオの出演者たちも涙を流すシーンがあったという。これが他のタレントなら「ふーん、感動ね(どうでもいいや)」で済ますシーンだが、ヒロミがやったときいて「うわっさぞかし下品なんだろうなー」という印象に一変する。感動が下品に変貌する一瞬。まあ、見てないから想像だけど。


俺はTVをよく観る時期と全く観ない時期が交互に来て、今は見てない時期に相当する。逆に5年〜7年前はよく観てた。このよく観てない時期こそがヒロミがなぜかタレント活動から離れていた時期であり、俺がTVから離れたら復活した。今はすごく出てるようだ(偶然点いてるテレビに遭遇するとよく出てる)。俺って運がいいなー。


「存在自体が下品」という本物の下品に会うと引いてしまう俺。修行がたりないのかなー。それとも心の底では下品を憎んでるのかなー。じゃあ俺の「下品の味方」は欺瞞なのか?


下品なら何でも好きなわけじゃなく、いい下品と悪い下品があるのだ、という言い逃れも一瞬脳裏をかすめる。だが、それは一番言っちゃダメなことのような気がする。某コラムニストが掲げた「悪趣味の良趣味」という言葉のイヤミさに近づくからだ。良下品?そんな選別あってはならない。俺が一番憎む「悪趣味のステイタス化を目論んでる人々」に近づいてしまうのだ。


困ったなー。

(よく知らないけど)鳥肌実のこと [文化]

鳥肌実の名前を知ったのは、雑談でもネットでもなく、とある劇団(仮にHJとする)からとあるイベントに呼ばれてそのHJの制作チーム(仮にHTとする)の代表のRさんと打ち合わせしていた時のこと。打ち合わせついでな雑談の中て


「RさんはHJやる前は何かやってたんですか?」


「鳥肌実を」


「へえ(初耳)。で、その鳥肌実って方は何をする方なんですか?芝居?コント?」


「演説です。」


「え?」


「演説です。」


「演説…演説?」


「演説です。」


ということで強烈な印象とともに鳥肌実という名前を刻みつけられる1幕があったわけだ。



その後、鳥肌実の事務所で制作手伝いしてた人がわが劇団のスタッフに加わったり、病気マンが鳥肌イベントの前座で呼ばれたり、ツイッターのプロフィールに「好きなもの:ゴキコン」って書いてくれる人が同時に鳥肌実のファンだったり、オメスの彼女(当時)が強引なナンパを受けあの車に押し込まれそうになったりして、直接の絡みはないけど身近なところで名前を頻繁に聞くようになっていった。



で、最近見つけたまとめ記事


http://togetter.com/li/893185


右翼的なものをネタで、パロディとしてやってるのかと思ったら、ガチだった。がっかりした。ゆえにシールズ的なものに冷笑的な立場を取る今までのサブカル的なノリは死んだ。これからはポップ文化も意識高くなきゃダメという論旨はまあむちゃくちゃでマジメに読む価値などないんだけど…



ネタかガチなのか?パロディなのか真剣なのか分からない一線をキープするってのは俺もやってること(右翼ネタじゃないけど)なので、その一線を守るのによりシビアなバランス感覚が求められる時代になって来ているのはひしひしと感じているので、その点だけにおいて興味深い。



イベント用短編作品で、シャム3兄弟のコントがあり、人生の苛酷さ、境遇の辛さを吐露した後、「これも政治が悪いんだ!」と、ものすごいテンションで政治の悪口は吐きまくるという展開があり、「あー、不幸な境遇をすぐ政治のせいにする人っているよねー」というのを踏まえたギャグであり、「小渕(当時)死ねー」とか叫ぶと「あー、くだらねー」という笑いが起こったものだが、今この作品を再演するとして、「安倍死ねー」と叫べばギャグになるか?というと、ならない。あの時は「おぶち死ねー」って言葉聞いただけで「何言ってんだこいつは?バカか?」って空気になったのだが、今はならない。ネタとガチのバランスの感覚が以前と変わってきてるのである。



まあ変わったら変わったで別なバランスで勝負するだけだが。我々は、ね。



で、鳥肌氏はそのバランスの取り方に失敗したのか?彼の演説作品とやらを一度も見たことないので、それについては何も言えない。


トラックバック(0) 

「ワイルド・スピード」観に行きたい [文化]

 数日後日本で公開になる「ワイルド・スピード」シリーズの新作。これは絶対観に行きたい。なにしろジェイソン・ステイサムが出るのだから。今や脳筋アクションスターとしては全世界トップに君臨するステイサムがやはり脳筋アクション映画としてトップレベルの水準をキープしている「ワイルド・スピード」シリーズに出るという画期的記念碑的事件。見逃さないわけにはいかない。

 「え?『ワイルド・スピード』シリーズがトップレベル?『エクスペンダブルズ』シリーズの方が脳筋レベル上じゃないの?」という反論を胸に抱いた方もいるかも知れない。確かに脳筋濃度、脳筋臭は「エクスペンダブルズ」シリーズの方が断然上である。だが、誰も逆らえないハリウッドの脳筋王シルベスター・スタローンの総指揮の元、脳筋以外のスタッフを完全排除してしまったその作品群は、さながら剛速球ストレートど真ん中しか投げない熱血ピッチャーのようであり、そんなピッチャーいたら野球ファンじゃない俺でも一応は見てみたいから当然観るが、画面自体の迫力、エキサイティングネスを高めるには技術論が必要であり、脳筋スタッフで全部固めては剛速球ストレートど真ん中だけでは普通エースピッチャーにはなれないのと同様、映像自体の吸引力や面白さはちょっと下がるかも。

 たとえば、「ワイルド・スピード4」(以下「4」)では、いつもながらものすごいスピード感のカーアクションが展開し、レース状態のままだだっ広い荒野から一気にトンネルだか洞窟だかに入るとき、見ていた俺は思わず「あ、ぶつかりそう」と首をぐっとすくめてしまい、首が痛くなった。「アクション映画も遊園地のアトラクションも同じ」と割り切った姿勢が生み出す素晴らしい映像演出であるが、ここまで客を画面に没入させるには技術的な細かいあれこれがきっちりこなされてなくてはならず、脳筋だけで構成されたスタッフでは不可能である。

 また、「5」では、金庫破りをするのだが、普通の映画で金庫破りなら「どうやってロックを外すか?」「どうやって厳重な警備をかいくぐるか」が重要なテーマとなり、繊細でスリリングな頭脳プレーが見所を形成するのだが、脳筋なので車と金庫をチェーンでつないで車のパワーで壁をぶち破って金庫ごと運び出す(「開けるの後でいいじゃん」)。その後おなじみの激しいカーアクションが展開するのだが、急加速、急ブレーキ、急ハンドルに連動して巨大金庫は路上で舞い踊り、街を破壊し、そのまま敵をやっつける武器となる。素晴らしい脳筋着想だが、逆に脳筋スタッフだけだとこういう着想にたどり着けないんじゃないかと思う。こういうシーンちゃんと実現するには意外にオタク的なこだわり持ったスタッフワークが必要で、脳筋から一歩引いた姿勢であれこれ熟考し、そしてまた脳筋路線を外さないよう心がけるというこれまた高度な頭脳プレーで作られていると思う。観てる方は「この映画、バカが作ってんじゃないの?」って印象を強く持つが、作ってる人たちは決してバカではない。

 まあ、いくつか例示したが、監督もスタッフも入れ替わるのでシリーズ中にはいまいちなのもある(「トーキョー・ドリフト」とか)が、アクションのバカ感をキープしつつちゃんと客を引きこむ力を持った「ワイルド・スピード」シリーズはその路線では世界最高水準といえるだろう。ジェイソン・ステイサムのキャラにぴったりであり、今まで出てなかったのが不思議なくらいだ。

 近日公開の新作は今まで主役を張ってた一人、ポール・ウォーカーの遺作となってしまった。時速180km出したポルシェで街灯に激突し、死んでしまった。プライベートも「ワイルド・スピード」であったことを自らの死を持って証明したのだ。役者の鑑と言えよう。

 第1作よりこのポール・ウォーカーとマッチョなタコ坊主ヴィン・ディーゼルのダブル主演でシリーズは展開されてきたが、最近は元プロレスラーのロック様が活躍するようになり、今度はそこにステイサムが絡むのである。非常に楽しみである。ステイサムのレギュラー化を望む気持ちもあるが、あまりメインで活躍するとやはり脳筋カーアクションシリーズのトップに君臨する「トランスポーター」シリーズと区別つかなくなるかも。それは困るなー。

トラックバック(0) 

ストイックでいいんだよ、芸術なんだから [文化]

 今まで観た舞台表現の中で、一番「ストイックだなー」と感じたのはもう30年近く前に観た田中泯の舞踏だな。2時間ほどの作品だったが、最初舞台中央で横たわっている田中泯がおよそ1時間かけて立ち上がり、

残りの1時間かけて3歩ほど歩いた!
終わり!

 当時まだ東京出てきたばっかりで、舞台作品というものを数本しか観たことなかった時期だから、それはそれは東京という街の奥深さに畏怖したよ。そして、

インテリという種族がこの客席にはいて、この一見シンプル極まりない内容から、豊穣かつ多彩な意味世界を読み取り、引きこまれ魅惑された気持ちでその2時間を過ごし、「2時間あっという間だったよー」などと終演後言ったりするするんだろなー

と思うと、さらなる戦慄を覚えるのだった。

俺はと言えば、2時間集中なんて到底無理で、
「この後ご飯どこで食べようかなー」
とか思いながら過ごした。寝はしなかったけど。

 それからいろんな舞踏だのコンテンポラリーだの絶対演劇フェスティバルだの抽象的な作品を観てきたが、やっぱりあれがダントツにストイックだったな。同じ舞踏でも麿赤児さんのなんかは、抽象芸術とは思わせないような仕掛け、工夫に満ちており、つまりは、エンタメ要素がたっぷり導入されており、
「だから麿さんや大駱駝艦の人たちはテレビや映画の仕事いっぱい来るんだ。」
と思い、
一方でエンタメに背を向けたひたすら禁欲的な求道者の一群がおり、
「その人達はエンタメなんか関係なく学者や評論家やその他一握りのインテリゲンチア様相手にそれこそストイックな人生を過ごしていくんだろうなー」
などと思っていた。そしたら、なんと田中泯がその後売れた!タレント化した!

 いやー。世の中って何が起こるか分からないねーという一例でした。

 さて、では映画で「ストイックだなー」と思ったのは何だろう?真っ先に思い浮かぶのは園子温監督「部屋 the room」ってやつだな。長回しを多用した映画ってのが当時話題になっていた映画だが、その長回しっていうのがとにかく半端じゃない!長回し過ぎて、おまけに動きもあまりないので、
まるで映画館にいながらにして巨大写真パネルを長々と見せられているよう
だった。田中泯の舞踏は寝なかったけど、これは寝た。そして、一回寝て起きたら・・・
景色が変わってなかった!
恐るべき動画感ゼロ映画。ストイック極まりないと思い、それ以降園子温監督の映画は一本も観てない。だが、この話を周りにすると「そんなことない。最近の映画なんかエンターテイメント感満載だよ。」と言われる。全く俺の抱いている印象と違う話されるんだけど、作風変えたのだろうか?

 まあそんなわけで、何が「そんなわけ」なのかよく分からないが、世の中いろんな温度差があった方が楽しいという立場なので、ストイックな求道者の皆さんは客にこびることなく、益々ストイックにおのれの信じる道を突き進んで欲しい。
 え?俺?俺はサービス精神でやってるから全く逆だよ。製作過程はストイックであっても客には一片のストイックさをも強いてはいけないと誰よりも心がけているよ。俺はそれでいいんだよ。芸術じゃないし。


トラックバック(0) 

あゆ、そして岡崎 [文化]

 映画「ヘルタースケルター」の主題歌が浜崎あゆみに決まったというニュースを聞いて思わず笑ってしまったが、もっと笑えることに浜崎あゆみは原作マンガの大ファンで、主役やる気まんまんで、「オールヌードも辞さない」と言ってたらしい。結局沢尻エリカがオールヌードになったわけだが、あゆの岡崎京子好きも意外かつ謎だよな。ところで、あゆと「ヘルタースケルター」のコラボレーションがあり得るのは21世紀も10年を経過したこの現代だからで、例えば岡崎京子がバリバリ現役だった90年代にはあり得なかったはず。何故なら当時はセンスのヒエラルキーがもっと厳然と存在したから。

 岡崎京子マンガのファンは浜崎あゆみなど当時聴かなかったはず。あ、当時浜崎あゆみデビュー前だから当然か。まあ、そうなんだけど、俺が問題にしてるのはセンスのヒエラルキーの問題で、岡崎京子はその頂点近くにおり、浜崎あゆみなんて底辺だろうと。両者が同じ作品で出会うなんて事は許されなかったはず。それが現在可能になったのは、ヒエラルキーが90年代、2000年代と次第に影薄くなり、ついに消滅・崩壊してしまったことを意味する。言い時代になったものだ。俺はこの時代を歓迎する。

 浜崎あゆみじゃダメで当時なら何がヒエラルキーの上位で映画の主題歌にふさわしかったかといえば・・・俺はステイタス主義者じゃないのでよくわからないけど、ルイ・フィリップとかじゃないの?当時ならね。じゃあ、今そういう「偉ぶりたい」人に向けてどんな音楽が、アーティストがふさわしいかというと・・・はっきり言って、該当するものがない。だからあゆでも別にいいのだ。

 センスのヒエラルキーが消滅した時代に岡崎京子マンガを映画化する意味なんてあるのか?と言う疑問もわくけど、はっきり言ってそれもないだろうな。まあここで何度も言ってるように日本映画界ではテキトーかつ不真面目なプロデュースが定着してるので、そういうバグも当然あり得る。日本映画のことだからもはや誰も文句言わないだろ。次は「オヤジギャル」がオシャレにゴルフする映画でも作ってみろ。

 まあ観に行かない映画の話だから基本どうでもいいんだけどね。

トラックバック(0) 

日本映画の正しいあり方について [文化]

 ゴキ女優の若人から「ボーイズオンザラン」のドラマが始まるという話題を振られた。若人は原作になっているあのマンガのファンなのだろうか?まあそれなりに面白いマンガだとは思ったが、「ボーイズオンザラン」よりもっと大好きな「宮本から君へ」からのあからさまなパクリがあるので腹立った。そんなマンガ。映画版はポツドールの三浦さんが監督して話題だった。ドラマは参加してないのか?

 で、どう答えた方というと、「関ジャニの村上なんとか君が出てるんなら、50%村上なんとか君のアップでいいんじゃね?」

 50%村上なんとか君の顔のアップ。村上なんとか君のいろんな表情を堪能。のこり50%のうち半分の25パーセントは村上なんとか君の全身像。いろんなポーズ。のこり25パーセントで村上なんとか君が出ない脇役のシーン。ビデオに録った村上なんとか君ファンには早送りで流されるが、一応ストーリーを説明するために入れておく。ジャニドラマなんてそれでいいだろ?

 そこまでやれば原作ファンも「やれ原作との違いが云々」とか騒ぎ立てはしないだろ?中途半端に真面目に作ろうとするからファンに怒られる。なんのためにそのドラマが撮られているか分かってないやつが足を引っ張っているのだ。ジャニファンのためのドラマなのにそういう割り切りで作ろうとしないから怒られる。バカにされる。まあ俺は原作ファンじゃないから怒らないけど。

 ついでに言えばキムタクの「ヤマト」も75%キムタクのアップでいいよな。キムタクのファン以外には用事ないんだから。ジャニじゃないけど、「カイジ」も75%藤原竜也のアップでいいし、「カムイ外伝」も、えーと誰だっけ?誰だか忘れたけどカムイ役のアップの連続で埋め尽くしちゃえよ。

 日本映画とか、そもそもそういう文化だと認知させちゃえよ。どうせ現時点でもそのぐらいの期待しか持たれてないんだから。かつてはもう少し違ったかも知れない。芸術だったかも知れないし、エンターテイメントの多様な可能性を開拓し、追求する場だったのかも知れない。もうそういう時代はとっくに終わったのに今でもそうだ、そうでなくてはならないと思っているバカがむしろ今の日本映画をダメにしているとは思わないか?

 白戸三平のファンが間違って観に行って、「先生の世界観がぶち壊された!」なんて起こることがないよう、映画とかドラマなんてそもそもそういうものという共通認識を形成するべきだな。誰も怒らなくていいように。

 原作が「ヤマト」だろうが「カイジ」だろうが、「○○くんを観に行ったのにシーンの半分も違う人が出ている!」とファンがちゃんと怒れるような空気をつくるべき。これからの日本映画、ドラマの可能性はそれしかない。

トラックバック(0) 

すげえなビジュアル系 [文化]

この広告しょっちゅう見るけど・・・ 

http://www.vantan.com/campaign/visualmake/?aid=pckwvm1009&cid=pc_gorm_pro_hm_ma&s_kwcid=TC 
ビジュアル系バンドに特化されたヘアメイクアーティストって・・・そんな確立した職業があるんだ。そして学校で専攻するほど需要があるんだ。 

ビジュアル系ってずいぶんとシステムが完成された産業なんだな。ビジュアル系専門のスタイリストとかもどっかで養成されているのか?バンドの皆さんはインディーズでライブ活動しながら「ビジュアル系専門作詞講座」や「ビジュアル系専門ボイスレッスン」に通ったりするのか?だからみんな発声法が似通ってるのか? 

レコード会社から「君たちもそろそろメジャーデビューだから」って紹介されるのか?「俺たちもそろそろ売れてきたからプロのメイクが欲しいな」なんてバンド内の会話があるのか? 

そして、ラルクとかは「うちらビジュアル系じゃないんでそこの出身者はNGです」って言ってるのか? 

彼らのメイクって自前または売れない頃からの仲間とかがやってるのかと思った。 

教室で机並べて、「はい、みなさん今日は髪の逆立て方です。目標は1m」とかやってるのか?「そのアイメイクはいくらビジュアル系だからって濃すぎ!センス悪いよ」って怒られたりするのか?(センスはそもそも悪いだろ?) 

生徒さん達はビジュアル系メイクを一生の仕事にするつもりで通ってるのか?多分それは無理だよ。 

とりあえずビジュアル系なる音楽ジャンルがアウトローさ、既成概念への反逆なんてのとは無縁のもので、背徳や退廃、精神錯乱を歌ってもそれは形だけのものだってことがよく分かった。 

いや、前からそう思ってたけど。

トラックバック(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。