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とてつもなく地味なミュージカル

「どうしてミュージカルを選んだの?」


 


って聞かれると理由として吐き出したい言葉がいっぱい脳内に湧き出して、奔流を形成し、そのテーマで何分でも何十分でもしゃべってしまいそうだが、あえて一言で済ませるなら


 


「派手にしやすいから」


 


となる。


 


そう、「より派手な演劇をつくりたい」と思った時に都合がいいんだ。


歌があり、ダンスがあり、それを盛り上げるための照明やら装置やら付随していく。自ずと作品は派手なものとなっていくだろう。逆に地味に作るのが難しいほどだ。


 


じゃあ、あえて不毛な問いを立ててみる事にしよう。


 


「地味なミュージカルを作るにはどうすればいいか?」


 


そうだなー・・・普通に考えていくと


 


●衣装は稽古着のまま


●舞台は一切装飾がなく、素舞台のまま


●人間関係のドラマは発生せず、基本長ゼリフばっかり


 


とかでやってくといいのかなー。そんな風にみんな考えるだろ?


実はそれを実現してしまったミュージカルがあるんだ。その作品名を


 


「コーラス・ライン」


 


という。


 


「え?『♪ワン・・・』って歌うやつだろ?キラキラした衣装着て派手に踊ってるイメージあるけど?」


 


そう、作品名で検索するとそういう派手な写真出てくるよな。宝塚みたいなやつ。


 


あれね。本編じゃないから。付録みたいなやつだから。


 


メインの話はひたすら自己紹介(長ゼリフ)。設定はオーディション。登場人物どうしの人間関係のドラマはほとんどない。(実はちょっとある。演出家とオーディション生に紛れ込んだ元カノとのどうでもいい痴話ゲンカ)


 


「いや、『CATS』だって全編自己紹介みたいなもんだろ?」


 


そう。実は構造がちょっと「Cats」と似ている。ある目的を持ったライバル達が集まり、順番にプレゼンしていくというところが。でも「Cats」は地味じゃないよな。一匹一匹のエピソードをそれぞれ単独で見ても見応えあるものにするための最大限の工夫がされている。


横一列に並んで順番に長ゼリフとかじゃない!


 


そんな「コーラス・ライン」の映画を見て「地味へと向かう謎の意志」を見せつけられて衝撃を受け、しばらく忘れてたのだが、舞台版をやってると聞いて観に行ったぜ。映画では素舞台だったけど、


「空っぽのホールを映像で見せるのと本当に空っぽのホールを見せつけられるのと違うだろ?一体どんな気持ちになるのか?」


つまらない事を承知の上で興味に負けて観に行ってしまったぜ。


 


結果は・・・やっぱり映画と同じようにつまらなかった。ちなみに素舞台のままではなかった。といって派手な装置とかはもちろんない。シンプルの極みである事には変わりはない。なぜそんな倒錯的な事をやろうとするのか。なぜ人気作品なのか?


 


なお、映画では「延々オーディションを見せつけられた後、付録のように本番シーンがはじまった!」ってなる「♪ワン・・・」のシーンだが、舞台版ではカーテンコール扱いになってたぜ。


 


「一番派手なシーンがカーテンコール」


 


そんなミュージカルがあっていいものだろうか?だが、実在するのである。その名は


 


「コーラス・ライン」


 


あの自己紹介が終わるごとに拍手が起こるお約束は何だったんだろうか?クラシックバレエ?


本当に存在自体が謎なミュージカルだなー。当劇団のファンにアレが好きな人はいないと思うけど、いたら魅力を教えて欲しい。どんな心理状態で楽しむ作品なのか?


 


でも、オーディションをテーマにしたミュージカルって意外に多いんだよなー。俺は基本的に「オーディションが主内容」って聞いただけで萎える。


彼氏がモテモテで何が嬉しいの? [マンガ]

ネットでマンガを読むようになると、雑誌買って読んでる頃には目に触れないようなマンガに触れざるを得ない時もある。触れざるを得ない時は大体高速スクロールでやり過ごすんだが、たまに気まぐれでちゃんと読んでしまうこともある。もともと興味ないはずのジャンルのマンガをな。例えば少女マンガとか。

 

で、2作ほど目を通してしまった。少女マンガに触れるなんて、妹が買ってくるやつを盗み読んでた高校生時代の40年近く前以来なんだけど、あまり変わってなくて驚いた。つうか少女マンガというジャンルがまだ絶滅してないこと自体が驚きなんだけど。

で、2作とも

「地味目の主人公がモテモテ男子とおもわぬところで接点を持つ。モテ男子のみんなが知らない一面に触れて他の取り巻きとは違う形の接点を持つ」

という共通の設定になっており、ワロタ。たまたま触れた2作がそうなら、現代の少女マンガ全部そうなのか?まあ、40年前触れてたマンガ達もだいたいそうだったな。主人公が好きになる男子はだいたいモテモテ。これは何なんだろう。みんなにうらやましがられて嫉妬されたいっていう隠れた欲望でもあるのかね?

 

少年マンガにはあまりそういうのはない。ヒロインがモテてるかどうかとかあまり問題にされない。それよりも女子の描写が読者の目(つまり同時に主人公の目に)にとって魅力的な造形になっているか(萌えれるか)?に心血が注がれてるように思う。

 

そこで思い出すのがフェミニストが提起してる「トロフィーワイフ」なる概念なんだけど、つまり、「みんなにうらやましがられ、自慢したいためにいい女を手にしたいんだろ」という男性批判。これ、多くの男性にとってあまりにピンとこないと思う。だっておいしいご馳走を食べたいと思う時、それはおいしいご馳走が食べたいからで、「後でおいしいご馳走食べたことを自慢したい」欲望など二の次だろ?そういう気持ちがないとは言わないがメインなわけないだろ?ジェンダー批判の人たちの男性洞察はだいたいピントが外れている。つうか、それ、むしろ女の話では?女性心理を男に当てはめてない?トロフィーをほしがりがちなのはむしろ女では?

 

はっきり言ってお前の話だろ!トロフィー欲しいのはお前だろ!

 

で、少年マンガで相手の女の子がモテモテなことは少ないと書いたが、じゃあ、誰がモテてるかというと、主人公自身なのである。さえない主人公男子が出会う女にいちいち好かれる、気に入られるという王道パターン。みんなが憧れるヒロインを射止める話よりずっとそっちのパターンが多い?男はどうやらモテ女子を射止めるより自分自身がモテたいようだ。そして少女マンガによれば、女は自分自身がモテるよりはモテ男子を射止めたい!あれ?少女マンガと少年マンガ、基本構造一緒じゃね?噛み合ってね?

 

もちろん少女マンガのモテ男子は少年マンガのラブコメに出てくるようなさえないのび太タイプじゃなく、キラキラしたイケメン王子様なので噛み合ってるとは言えないが、近い非対称性を描いてることが大変興味深い。この非対称性、フェミはけしからんというだろう。俺はフェミじゃないから言わない。大いに好ましいとも言わないけどね(あまりにワンパターンで「またか」と思うことも多いから)。


ランボー 脳筋の源流を訪ねて

脳筋映画大好き!


え?脳筋映画とは何かって?正式な映画用語じゃないので、ちゃんとした定義などないが、バカ映画の一種で、演出に勢いがありすぎて知性によるブレーキが外れたように見えるもの。ヒャッハーな感じで作られているものとでも言えばいいか。ジェイソン・ステイサムとか、ブルース・ウィリスとかが大暴れしてるのが多い。


だが、本当にヒャッハーな人が集まって映画を作ってもエンターテイメントは成立しない。テーマパークの絶叫マシーンはバカでも楽しめるが、作ってる人はバカではないのである。俺なんかより何倍も頭がいい人が集まって案を出し合い、検証し、設計している。脳筋映画も本物の脳筋バカがあつまって作ってるわけではない。そこには精密で繊細なスタッフワーク、頭脳労働を前提としている。そうでなければ臨場感や迫力を持った映像にならない。にもかかわらず出来上がった映画は少しも繊細さや知性を感じさせず、何も考えず勢いだけで作ったような力技の集合体みたいな作品になってしまう。そんな作品の数々を俺はリスペクトし、愛しているのである。


21世紀になってから、そんな脳筋映画ばっかり観ているが、元祖っていったら何だろう?やはりスタローン映画なのではないか?と、思い立った。いや、もっと昔から脳筋的な映画ってあるのかもしれないが、脳筋を印象づける強烈なキャラクターってスタローン以前にはいなかったのではないか?とも思う。


で、今更ながらスタローンのバトル映画の金字塔、「ランボー」シリーズを観ることにしたのである。いまさらに、この時代に!ちなみにリアルタイムでは観てない。避けてた。はっきり言って嫌いだった。シュワちゃんは好きだったのにね。シュワちゃんに関しては「バトルランナー」とか「トゥルーライズ」とか細かいのまでいっぱい観てるよ(「ツインズ」みたいにアクション性が明らかに低そうなのは除く)。シュワちゃんの近未来の光景とか、サイボーグ的設定がよく似合う感じが好きだった。かたやスタローンは?髪のもじゃもじゃは肩まで掛かりそうだし、バンダナ巻いてるし、いつも汗びっしょりで裸だし。すげえ嫌だった。なんだろう?ダサいものに対する許容度が今ほど広くなかったのかな?若かったし。勘弁してくれーとか思ってみてた。


だが、数々の脳筋バカ映画をクリアしてきた今の俺にはそんなバイアスは消滅した。やっと「ランボー」シリーズを観る機は熟したのである。で、シリーズの1「ファースト・ブラッド」から最近の「ラスト・ブラッド」までの5本を立て続けに見たぜ。で、感想はというと・・・


あれ?思ってたような脳筋じゃないな。ちなみに「エクスペンダブルズ」はすでに観てて、あれは確信犯的に脳筋だと思う。「ランボー」は違った。「ワイルド・スピード」みたいに金庫破りしようとして、しばらく正解の番号を探る緊張感あるシーンの後、「もう時間がないから金庫ごと引き抜いちゃお」って思い立ち、車と金庫をつないで建物の躯体から引き剥がすみたいな脱力するようなバカシーンはない。じゃあ、面白くなかったかと言えば、面白かったり、そうでなかったり、いろいろと興味深かった。面白さの順番で言うと

4>1>2>3>5

となる。以下、具体的に感想を書いていこう


「1ファースト・ブラッド」

まず、この記念すべき一作目が痛快娯楽大作じゃないことに驚く。主人公は最初何考えてるかわからない謎キャラだが、だんだんと心の傷と屈折が浮き彫りになっていく。最後にさめざめと泣きながら感情を吐露して終わる。ハッピーエンド感のない暗い映画である。ベトナム戦争後のアメリカの世相と市民感情の暗部をシリアスに表現していて興味深い。全然脳筋ではない。でも、引き込まれる。

バトルも小規模で、はっきり言って地味だが、仕掛けにこっていて陰湿さすら感じるが逆にそれが面白い。娯楽大作と勝手に勘違いしてて意外だったが、楽しめた。


「ランボー2」 

で、その作から方向転換してバトルの規模は大きくなり、スペクタクル大作への道を歩み始める。あれ?バトルの緊張感、臨場感は逆に後退し始めた気がするぞ。

「ランボー」シリーズでは唯一恋愛的なものが明確に描かれるが(「4」でもなんとなくそれっぽい雰囲気は醸されるけどね)、アメリカ映画の恋愛の描き方って雑だよなー。そのチュー、いきなり過ぎんだろ。日本の少女漫画やラブコメは「あの子私(俺)のことどう思ってるんだろ?」「あんなやつ嫌い!って思ってたけど、なんか気になりだした。もしかして好き?」みたいなのがくどくどくどくど描かれる。それはくどくど過ぎんだろって思うが、もう少し「好きになる過程の心の揺れ」とか描いてくれてもいいよな。「ロッキー」もそう。コンビニのレジの姉ちゃんにつきまとってて「おい、おい、相手は嫌がってんだろうが。勘弁してやれよ」って思ってみてると次のシーンでいきなりラブラブになってる「頑張れベアーズ大旋風 日本遠征」もそう。ストーカーみたいに日本の女の子につきまとって家の前までついてって「おめー、しつこいな。やめてやれよ」って観てると次のシーンで突然ラブラブになっている。「ラ・ラ・ランド」もそう。「♪あなたのことは全然興味ないわー」「♪俺もだー」みたいなミュージカルシーンが展開し「だったらわざわざ歌うなよ」って思いながら見てると、次のシーンではもう同棲してる。アメリカ映画ってこういうの多い。


「3 怒りのアフガン」

「映画史上最大規模の殺人」が宣伝文句らしく、バトルの規模はさらに拡大する。クライマックスではひたすら息つく間もない爆破!ドンパチ!だが、昭和のジジババ向けの時代劇のチャンバラ観てるみたいで、なんか様式美っていうか、刺激的に感じないんだよなー。これはハリウッドとかのアクションシリーズにありがちな話なんだけど、バトルのスケールがでかくなり、等身大を離れると、バトルが抽象的に感じられてくるっているパラドックス的なものがある。SFアクションとかだと、敵がインフレーション的に強くなって、例えば「惑星をにぎりつぶすレベルの敵が現れた!」「さらにその敵を小指で吹っ飛ばすモンスターが現れた」みたいにエスカレートしても、もう何も感じない。等身大や日常とリンクする見せ方をどっか作らないと、「すげー」ってならないんだよなー。その点マーベルとかはバトルが拡大化しても抽象的にならないように配慮がある気がする。そこは余談だけど、この「ランボー」シリーズはバトルの規模が拡大するに従って、初期にあった仕掛けの面白さや緊迫感が薄れて平板な暴力描写になってるような気がする。


それと、この映画、ムジャヒディンに味方してるなー。この頃アメリカはソ連に対抗するため、反政府ゲリラを支援してたんだよなー。それをそのまま正義側に描いてる。この後タリバンとかアルカイーダとか出てきたんで、現代の視点で見ると、「大丈夫かよ、これ」って思うなー。アクション映画は大作化するにあたって国際対立を盛り込まざるを得ないわけだが、いろいろと考えなくてはいけなくて大変だなーって思った。


この3まででシリーズは一応一区切りと考えてよくて、一度はもう観るのやめようかなって思った。「規模がでかくなるとバトルの迫力を出すのが難しくなる面もある。このシリーズはそのトラップに見事に引っかかり失敗」みたいな結論を提示して、このコラム的にもまとまりがいいような気もしたし。


でも、折角だから最近作も含めて全部観ることにした。


「4 最後の戦場」

で、やっぱり観てよかった。この作品が一番よかったのである。バトルは相変わらず規模がでかいが、残虐度がアップしてる。ドンパチも前作までは昭和日本の刑事ドラマみたいな予定調和感あるものから一気に変化し、イヤーな感じを出すことに成功してる。まず、オープニングからもう、ミャンマー軍の非道さの描き方が、カルト映画レベルにエグい。で、その後本物っぽい記録映像みたいなのが流れるが、告発モノと思うぐらいシビアな素材が使われている。バトルも血や肉片や靱帯損傷を異様にきっちり印象づける表現がなされており、この突然のこだわりはなんだ?って思った。バイオレンス表現としてはこの作がシリーズ中トップであろう。グロにこだわった作品と言ってよい。面白い。脳筋ではない


「5 ラストブラッド」

軍隊一個隊まるまるぶっ潰すまでエスカレートしてたバトルの規模が、この作品で突然スケールダウンする。敵は家族経営の売春組織で、売春婦も10数人ぐらいしかいなさそう。歌舞伎町なら中規模クラスだな。自宅を忍者屋敷みたいなからくり殺戮装置に改造し、敵軍団を誘い込んでやっつけるが、なんで全員来るのか?とかいろいろ謎だった。多分敵のアジトだと都市のバトルになるので得意のランボーバトル(草むらと一体化したり、泥まみれになって壁に擬態したり)が生かせないからだ。ランボーを助けてくれたジャーナリストの女性も重要な役割を果たしたにもかかわらず、途中から用なしになり、出てこなくなるし、全体に構成が破綻してると思った。


そんなわけで「ランボー」シリーズ、全部観てしまったが、まあ面白いのもあったが、脳筋ではなかった。スタローンが脳筋の元祖って言うのは勝手なイメージだったというのが今回の結論でした。


純文学なんぞに興味はないけれど [文化]

これを読んでいるみんなはわかってると思うが、俺の基本姿勢はアンチインテリなので、純文学なんぞに興味はない。ドカタでも理解出来るわかりやすいエンターテイメントのみを支持し、基本小説なんて読まないが、たまに読むとしてもミステリーとかSFとかエンタメ度の高いものばかりである。


ただピース又吉の作品が本当に純文学なのかどうか気になる。野次馬的に。野次馬的だから読まない。まあ、ある作品が純文学かどうか読んだところで俺には分からないけどね。


 


スピリッツ誌で「花火」のマンガ化したやつが連載されていたが、マンガのくせに文字だらけ。しかも内面の吐露ばかりで


「タルいなー」


という印象しかなく、楽しめなかったが、その楽しめなさこそが逆に純文学なのかなー、と思わせた。まあマンガ家が下手くそなだけかもしれないが(たとえ純文学じゃなくても小説内に書かれている内面吐露をそのまま文字に起こせば、そりゃーマンガとしてダメなものになるに決まってる)。


 


そこでこの記事


https://trilltrill.jp/articles/472384


作家の湊かなえ氏が押切もえのノミネートに不満を漏らした。漏らしついでに又吉氏のことも引き合いに出した。それに乗っかる形で筒井康隆氏は押切もえを「女又吉」と批判。


作家としてのプライドが強い反感を引き出したのだろう。「タレントの余興と一緒くたにするな」と。


湊かなえ氏の作品は「告白」しか読んだことないけど面白かったなー。夢中になって一気に読んだ。ちなみに純文学とは思わなかった。優れたエンタメだと思った。だって難しくないもん。インテリにしかわからないような作品じゃないもん。


だからプライドっつってもエンタメ作家としてのプライドなんだろうけどね。純文学側からのダメ出しではない。


 


ただし、出版界は近年凋落の傾向にあり、特に文学の売り上げの落ち込みが激しいという。そんな中、タレント本で話題を作り凋落を回避できればという政治的理由が文学賞の選考過程に持ち込まれればそりゃあまじめに小説書いてる人は気分良くないだろう。たとえエンタメ系だろうと。


じゃー湊かなえさんみたいなエンタメ作家(褒めてます)ではなく、本格的に純文学側の人は又吉の活躍をどう思ってるのか?エンタメ作家以上に怒ってるのか?タレントの余興を話題作りで持ち上げてると強く批判しているか?


 


純文学にあまり詳しくない俺の知識の中でエンタメの匂いのしない純文学作家として真っ先に脳裏に浮かんだのは古井由吉という名前だった。まだ俺も若くてインテリっぽいものを今ほど拒否してなくて「たまには難しい本を読んで頭よくなろう」などと思っていた時期一番難しいと思った小説が古井由吉の「杳子」だった(他にも難しい小説などいろいろあると思うが、知らない)。まさに内面ばかり。しかも感情移入させてはくれない病的な内面展開。まさにエンタメの対極である(あくまで俺の印象だけどね)。


 


で、早速「古井由吉 又吉直樹」で検索すると、なんと古井氏、又吉を褒めているではないか!


 


https://matome.naver.jp/odai/2146345337807803701


実は湊氏、辛口コメントの直後には押切もえの受賞を歓迎するコメントに切り替わっていて、やはりエンタメ作家は、売れてナンボ、稼いでナンボ。出版界の政治力学には逆らえないんだなーと、思ってしまうが、非エンタメ界の重鎮古井由吉氏にそんな力学が作用するわけない。きっと本気で褒めているのだろう。


 


というわけで純文学中の純文学、古井由吉が褒めたので又吉直樹の純文学性も本物!話題作りのためのインチキ受賞ではないという結論が俺の中で出た。俺の野次馬的疑問は解消された。


 


え?あっさり解決しすぎるって?すみません、本格インテリじゃないのでこのくらいの調査が限度です。あの作家が褒めてたとか、あの作家がけなしてたとか情報があったらお知らせください。野次馬的的興味でにお待ちしてます。


 


 


押切もえがどんな作品を書くのかは又吉以上に興味ない。水嶋ヒロも興味ない


「グレイテスト・ショーマン」と俺 [文化]

ウルヴァリン 髭を剃ったら アイアンマン


俺にとってヒュー・ジャックマンと言えばウルヴァリンで、あのヒゲがトレードマークだったんだけど、あれはコミックキャラのトレードマークであり、ヒュー・ジャックマンが元々ああいう人ってわけじゃないんだよなー。今回ヒゲ抜きのヒュー・ジャックマン初めて観たんだけど、ロバート・ダウニーJr.と区別がつかない顔だと思った。共演じゃなくてよかったなー。これは両者が似ているってわけじゃなく、おれがそもそも外人の顔を見分けるのが苦手(実は日本人も苦手だが、外人になるとひどくなる。多分脳の何らかの病気)ってことによる。


そんなヒゲ抜きのヒュー・ジャックマンが主演するミュージカル映画「グレイテスト・ショーマン」を観た。ヒュー・ジャックマンが、サーカス団をきりもりする話。サーカス団って言っても、そこに集まってるのは、ヒゲ女、コビト、巨人、シャム双生児で、サイドショー的側面を持つ。日本のテレビで放映できんのかこれ?

つまり、見世物とミュージカルが2大要素として展開する映画である。ちなみに見世物小屋をプロデュースし、ミュージカル公演をプロデュースする人間といえば日本には俺ただ一人しかいない。俺のために作った映画かと思ったぜ。


主人公はサーカス(見世物)興行を成功させて金持ちになるが、高尚ぶった評論家には「低俗」と酷評され、街の一部の人たちの反感を買い、「下品だ。街から出て行け」てな感じの排斥運動が起こる。なんか他人事じゃないなー。って思った。俺は金持ちでも人気者でもないけど。


街の反対派の排斥運動見てたら、俺の運営する見世物小屋に動物愛度団体が乗り込んできて「蛇食いやめろー。動物虐待するなー」って訴えてきた過去の事件を思い出したんだ。警察連れて来て「これは犯罪ですね。今度やったら逮捕します」とまで言わせたので、俺の見世物小屋から蛇女の出し物はその日からなくなってしまった。


ちなみにこの映画はP.T.バーナムという実在の人物の伝記映画である。実話を元にしているのである。19世紀に見世物とサーカスと動物園が合体した興行団体をつくり、アメリカ中を巡業して成功をおさめたそうな。で、この人の作ったサーカス団はフリークスこそいないが、つい最近までリングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカスという最も著名な巡業サーカス団として活動中だったらしい。




調べると、人気の出し物だったゾウのショーの廃止を発表。そしたら人気が落ちてサーカス団の解散に至ってしまった。そして去年の5月に最終公演が行われたとのこと。そしてゾウのショーの廃止の理由の1つは動物愛度団体からの批判だというではないか!


このような背景がこの映画がつくられたきっかけになっているとしたら、ますます感慨深いなー。観た人は分かるかもしれないけど、ハッピーエンドなのにあの出だしの「もう終わっちゃった」感とか、意味深に思える。


そんなわけで他人事とは思えない映画を観た話をしました。ミュージカルシーンは、めちゃくちゃ派手ってわけじゃないけど、小道具をうまく使ったり、アクロバティックな体勢で歌ってたりひとつひとつ工夫が込められていて楽しいのでおすすめです。興味を持った方は是非。


相撲を滅ぼさないために(滅んでも別にいいけど) [文化]

日本語カタコトの外人たちが、上位を独占し優勝を争う、そんな国技見て楽しいかい?


日馬富士だの白鵬だの貴乃花親方だの、去年からいろいろと話題だけど、そもそも今相撲って人気あるのかね?上位ほとんど外人だろ?国技としてどうなのよ、それ。


野球は1チーム何人とか外人枠が設定されているが、相撲はどうなのか?調べてみると、かつては外人枠などなく無制限だったが、外人が上位ランクにどんどん進出してくるのでさすがに90年代初頭から制限を設け出たらしい。さらには、単に「外人枠」とすると、「相撲のために日本国籍を取得した生まれも育ちも外国の人」がどんどん入ってきてしまうので、「外人枠」を「外国で生まれ育った人」枠に設定替えするとかいたちごっこが展開されているらしい。おもしれえな。

そもそも何で外人が入ってきてしまうのか?恐らくどの部屋の親方も「日本の相撲をさらにハイレベルにし、盛んにするため外国人力士を積極的に起用するのが望ましい」なんて思ってないはずだ。外人など少ないほうが国技らしくていいと思ってると思う。なら何故起用するのか?他の部屋が強い外人を呼ぶかもしれないから、自分が呼ばないと損するから呼ぶのだ。これはまるで囚人のジレンマである。囚人のジレンマ、つまり全体を良くする選択肢があっても、自分だけが損する可能性があると、全体としては悪い方向に進むけど自分の損が少ない選択肢を選んでしまうというジレンマ。協力より裏切りを人は選んでしまうのだ。


外国人力士の態度やら戦い方やら問題とされているけど、まあ相撲の将来に向けての選択肢は2つしかないだろうな。


1つは潔く無制限に国際化する。どんどん外人を入れる。ランク上位に日本人は殆どいなくなり、国技としての体裁を保てなくなるだろうな。ならば、国技であることをやめ、純粋に近代スポーツとして認めなおせばいい。当然弓取り式やったり、マゲ結ったり、マワシ締めたりは廃止な。儀式的なものは全て廃止だ。それでもかつては国技であったものが世界的に人気のスポーツとして認められれば、「日本スゴイ」を言い続けたい愛国者の皆様も別に不愉快な事態にはならないだろう。もちろん女性力士の参入も認められるべき。


もう1つは、外人の完全排除だ。差別的と言われるかもしれないが、儀式、神事なのでしょうがない。


このどっちか2つの選択肢を選ばないかぎりは、現在の状況がさらに進み、相撲の人気は先細り的に衰退し、相撲は滅んでしまうだろう。


まあ、俺は別に滅んでもいいけど。相撲見てないし

BBG48とフェミニズム [社会]

BBG48で活動してると、よく女性から「女性の気持ちよく分かっていますね」って言われる。


とんでもない。


俺ぐらい女性の心が分からない人間はめったにいない。「女性って全く理解不能で謎な生き物だなー」って感じながら生きているよ。はっきりいって苦手である、ほぼ全女性が。

そう思いながら生きてきたからこそ、ゴキブリコンビナートは完全な男目線の作品をやっている。女性がドン引きするようなどす黒い男の本音をむき出しにする作風を自負している!

で、BBG48の作品群はどうやって作られているかというと、
「女性には理解しようもない男の小汚くどす黒い本音の部分」
をそのまま一人称を女性に代入して書き換えて作っている。

それが「女性の気持ちをよくわかっている」などと解釈されるのだから、世の中不思議だねー。


「男女のメンタルは永遠に平行線。永遠に分かり合えることなどない」

と思っていたら、意外に本質は似たようなものだったってこと?


「男女の性格に本質的な差などない。基本的に同質である。男女の非対称性など幻想。」などと結論付けると

フェミニストが喜びそうだな。


だが、そんな結論に達する気はない。「意外なところに男女の共通部分がある。でも全く同じではない」ぐらいの理解でいいだろう。

「男女に性格、趣味、趣向の違いがあるとすれば、それは男社会の長年に渡る抑圧が原因で、より人権に配慮した社会に向かえばそんなものは消失するはず」

というフェミニズムの主張には同意しない。

性ホルモンの分泌が男女の性格に影響を及ぼしてるので、完全に男女が同じ性格になるなんてことはないと思っている。だが、それも生物学的に結論付けられたものでは決してないので、あくまで勘ね。勘。推定。もちろん性ホルモンが性格に及ぼす影響などなく、男女の性格差は社会的なものという結論も特に出てない。現時点では誰もが勘、印象で語るしかない。


フェミニズムは「男は男らしく」「女は女らしく」という価値観とか、「男はこれがかっこいい」「女はかくあるのが魅力的」みたいな属性差、属性ごとにちがう評価軸で優劣をつけられる社会を変えていこうとしている。その理想的な状況とは容姿、ファッション、価値観、性格、趣味、すべてにおいて男女の差が個人差に埋もれてしまう社会だろう。その理想社会ではもはや初対面の人間を男か女か判別することはもはや不可能である。

そんな社会が果たして可能なのか?俺は可能だと思う。医学的に処理できる、もしくは将来処理できるようになりうると考える。もし男女差がホルモンの分泌から帰来するものだるなら、ホルモンの調整を幼児期よりすればいい。医学が本気でやれば、そんな遠い将来じゃなくても出来るようになりそうだ。胸の大きさも、体格差も、顔つきも男女の区別がなくなる社会は可能だと思う。


もっとも、俺はそんな社会はまっぴらゴメンである。まあ、明日突然そんな社会が実現するわけはなく、多分俺が死んだあとになるだろう。その時代に生まれついた人々は、それを当たり前だと思って受け入れて生きていくだろう。だから問題はない。別に心配はしていない。俺が生きている間は「平等も大事だが、平等より大事なものも時にはある」ぐらいな緩い平等観で生きていられるはず。



犬死とは何か [社会]

終戦記念日頃にネットで盛り上がった議論なので、その時に書きたかったが仕事が一番きつい時期でまとめる心の余裕がなかったので今書く。

テーマは「『英霊に感謝すべき』って右の人たちは言うけど、本当にそうなのか?」

今の平和と繁栄は戦争で死んでいった可哀想な兵隊さんたちのおかげなのか?死んでいった兵隊さんたちの恩恵って何かあるのか?犬死ではないのか?


例えばこういう言い方をする人がある。


こういうのは「論理的には犬死に反論ないけど、かわいそうだし失礼だから犬死呼ばわりはやめよう」という、言わば精神論である。右寄りの人は精神論大好きである。佐々木俊尚氏が特別ネトウヨだとは思わないが、そんな氏にしても発言が右に傾けば精神論臭くなる好例といえよう。ここでは精神論で議論はしたくない。上記のような発言は無視していい。


普通に考えれば負け戦で死んだ人はみんな犬死。恩恵などない。勝ってこその感謝である。なぜなら負けた戦争はやらない方がよかった戦争だから。やらない方がよかった戦争で死んだ人は無駄死にである。普通に考えて。


普通に考えればそうなのだが、歴史は複雑であり、一筋縄ではいかない。普通に考えればいいというものではない。ここが難しい。

ここでよく右の人が例に出すのがフィンランド冬戦争である。圧倒的な軍事力差があり、勝ち目のない戦争だったが、粘り強く抵抗したことにより、独立を維持できたというものである。負けた戦争でもやらない方がマシとは言えない例として挙げられる。


また、経済封鎖などで当時日本は戦争に参加する以外の選択肢がなかった、参戦は不可抗力だったという話もそれなりに説得力がある。では、戦争しなかったほうが今よりひどくなってたのだろうか?負けたのに?わからない!


それらのことを考え合わせると「負けたから犬死だ」とは一概に言えなくなる。負けたけどやったほうがよかった戦争なのかもしれない。どうなのか?結論を出すのは不可能だ。歴史は複雑だから「もし○○だったら?」をあまり厳密に突き詰めて何かを断言することは出来ないのだ。バタフライ効果って言葉もあるように。「やらない方がよかった」という断言がしづらくなってきた。「負けたけどやった方がよかったかもしれない」可能性もあるような気もしてくる。じゃあ何も言えないのか?


そんな時は始めたときの国民や偉い人達の気持ちを考えればいいだろう。「負けるかもしれないけど、やらないより、やった方がマシ」「多分負けるだろうけど、他に選択肢はない」そういう認識がアメリカに宣戦する時にあったかどうかだ。そんな悲壮な決意が上層部にあり、国民間にムードとして漂ってたのなら、結果的に負けたとしても、死んでいった兵士たちに感謝、敬意が自然と生まれてくる。そうじゃなくて絶対勝てるつもりだし、勝った上での展望しかもってなかったのなら、死んでいった兵士たちに向ける感情は単なる憐憫、同情以外のものはなくなる。「勝つ気満々だったけど、負けた。でも結果的にはやった方がよかった」などという論法は、説得力ないだろう。真なる可能性がゼロだとは言わないが。


さて、どうだろう。大戦初期に「負けるかもしれないけど、やった方がいい。やるしかない」という強い主張が公民やお偉い方々にあっただろうか?支配していただろうか?ムードとして漂っていただろうか?今のところ俺には逆の情報しかないけど。



俺は本当は下品の味方じゃないのかもしれない。 [文化]

「下品大好き」「下品の味方」と事あるごとに叫び続けて幾十年な俺だが、「本当は下品の味方じゃないんじゃないか?」と不安になる時がある。

「サブカル気取って『下品好き』って言ってるだけで、本当はきらいなんじゃないの?」

一番言われたくない言葉だが、あることを指摘されると反論できなくなる。つらい。

TVタレントの中には下品や下ネタを売りにしている人も多いが、別に下品を売りにしているわけじゃなく、下ネタもそうは言わないけど極めて下品!存在そのものが下品だから別にシモネタとか言わなくても十分下品。下品オーラが爆発!というタイプがいる。


具体的に言えばヒロミである。そして昔の話をすればクワマンである。


別にシモネタとかガンガン言うわけじゃない。だから何で彼らが下品なのかはっきり言って言葉でうまく説明することは難しい。存在そのものが下品だから容姿からやることなすこと全部下品な印象しか与えない、としか言えない。

そんな下品のプロフェッショナル、下品の王様を俺は大好きか?といえば嫌いである。それで「人一倍下品好き」って自認できるのか?自認していいのか?自信を大いに失う。


先の24時間TVでは、千葉の僻地の寂れた駅を一生懸命改装して、地元の子供たちに大喜びされ本人もスタジオの出演者たちも涙を流すシーンがあったという。これが他のタレントなら「ふーん、感動ね(どうでもいいや)」で済ますシーンだが、ヒロミがやったときいて「うわっさぞかし下品なんだろうなー」という印象に一変する。感動が下品に変貌する一瞬。まあ、見てないから想像だけど。


俺はTVをよく観る時期と全く観ない時期が交互に来て、今は見てない時期に相当する。逆に5年〜7年前はよく観てた。このよく観てない時期こそがヒロミがなぜかタレント活動から離れていた時期であり、俺がTVから離れたら復活した。今はすごく出てるようだ(偶然点いてるテレビに遭遇するとよく出てる)。俺って運がいいなー。


「存在自体が下品」という本物の下品に会うと引いてしまう俺。修行がたりないのかなー。それとも心の底では下品を憎んでるのかなー。じゃあ俺の「下品の味方」は欺瞞なのか?


下品なら何でも好きなわけじゃなく、いい下品と悪い下品があるのだ、という言い逃れも一瞬脳裏をかすめる。だが、それは一番言っちゃダメなことのような気がする。某コラムニストが掲げた「悪趣味の良趣味」という言葉のイヤミさに近づくからだ。良下品?そんな選別あってはならない。俺が一番憎む「悪趣味のステイタス化を目論んでる人々」に近づいてしまうのだ。


困ったなー。

嫌いなマンガベスト5 [マンガ]

嫌いなマンガベスト5をあげてみようと思う。

といっても本当に嫌いなマンガは視野に入ってこないように無意識に避けているだろうから情報も入ってこなくなり、その存在が気にならなくなっているかもしれない。嫌いになっていることなっていることすら忘れて、嫌いなマンガとは?と問いかけた時、念頭にすら上がってこなくなってるかもしれない。 だがこれからあげるマンガは、
「何だこのマンガ。嫌いだ。そしてこの気持誰かにいいたい」
と、思いながら時々つい読んでしまうタイプのマンガである。本当は好きかもしれない。

ちなみに全マンガ史、俺の前マンガ読書歴から選ぶと大変な作業になるし、大昔のマンガとか読んでる方も調べないとわからないのばっかり出てきそうなので、現在連載中のものに絞ることにする。 

5位「トクサツガガガ」
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別にOLが特撮好きでも別にいいと思うが、なんか主人公のキャラが愛せない。OLが特撮ヲタであることからくる悩みやトラブルや悲喜こもごもを面白おかしく描いてるが、本当は「誰がどんな趣味でも無条件に許されるべき」というおおらかな思考じゃないんじゃないかとも思えてくる。あと、このマンガ、毎回全体になんか説教臭い。 

4位「チェーザレ」
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モーニング誌も昔よりは女性読者も増えただろうし、少女マンガ出身の青年マンガ描きも増えているところからこういうマンガがおっさん向け青年誌に描かれるのも時代の必然なのだろうか?中世イタリアの政治的な陰謀やら野望やら描いている。そう書くと面白そうだが、主人公はじめ主要登場人物がみんなキラキラしすぎ。俺みたいなオッサン読者には虫唾が走る。女性向け雑誌に連載されていたらここにランクインされることもなかっただろう。
他でやれ。 

3位「鬼灯の冷徹」
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何号かに1回は読んでしまう。実際読むとつまらないということはない。だが、同時に「うわっ苦手」という気分も強烈に沸き立ってくるという困ったマンガ。 

描いてる人は女性っぽいが、オタクだろ?まちがいなく。いや、オタクネタ別にこのマンガにないんだけど、矮小化とでも言えばいいの?地獄とか悪魔とか本来おどろおどろしく描かれるべきものを可愛くライトに時にしょぼく描くことから生まれるギャップのギャグ。その笑いのセンスがどうしようもなくオタク臭い。ゆうきまさみにも通じるかなー。日頃よりリア充よりオタクの味方でありたいと発言している俺であるが、こういうのに接すると思わず
「オタク死ね」
と、叫んでしまいそうになる。読まなければいいんだけどなー。 

2位「かなたかける」
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高橋しんの作品なので絵柄といいストーリーといい反吐が出そう。やだやだやだやだ全てがやだ(だが、毎号読んでしまう)。

1位「コタローは一人暮らし」 
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複雑な家庭環境で普通に見れば「かわいそう」な境遇に置かれた小さな男の子が、そんな素振りも見せず強がっていてそれがまた健気でそれに振り回される大人たちもなんだか愛おしいという趣旨のマンガだが …

全然愛おしくねえよ。

ガキもそれに振り回される大人たちもまとめて皆殺しにしたくなるそんなマンガ。殺人衝動を助長するキケンなマンガである。

そんなわけでいつもは冷静で論理的な分析がウリな俺のコラムであるが(え?ちがう?)、今回に限っては感情ばっかりになっちまった。たまにはいいだろ? 

 


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