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「ニュートラルな演劇」の謎

 演劇嫌いなのに演劇を作っている俺。そんな矛盾の中を何十年も生き抜いてきた。観に行くお芝居の大半は興味をそそられないどころか不快極まりないシロモノ。演劇嫌いだからしょうがないな。

 だが、最近嫌いな演劇にも二種類あることに気づいた。「何かに特化された演劇」と「ニュートラルな演劇」。俺自身の活動は「何かに特化された演劇」の最たるもので、だから活動過程で義理やらつきあいやらで観に行くハメになるお芝居も「何かに特化されているな」という感想をもたらすものが多い。演劇嫌いの俺も時には「面白い」と思うことがたまにあるが、そういう場合は「何かに特化された芝居」を観ている。だが、世の中で興行される演劇の大半は「ニュートラルな演劇」に属する。「小劇場」なんて聞くと「何かに特化された芝居」をやりたい人が集まっている場なんじゃないかと最初思う人が多いんじゃないかなと思うが、何故か事態は全く逆で、商業とかよりもむしろ小劇場界こそ「ニュートラルな演劇」がひしめいている。

 「ハイレグ」とか「毛皮族」とか「シベリアなんとか」とか観に行っても全然面白いと思えず、何が面白くて何が面白くないかの趣味、価値観、思考様式が全く違う異人種達が作ってる作品にしか感じられないが、「何かに特化されているな」とは感じることが出来るので、場合によっては応援する立場に立つこともあると思うし、寿命が医学的な進歩かなんかであと500年ぐらい延長されたら何百年後かには趣味の変動の幅もあって「面白いかも」と思う一瞬が訪れるかも知れない。彼らの芝居を楽しめないのは単に趣味の違いの問題である。

 ところが、「ニュートラルな演劇」にはもっと根本的な違和感を感じる。大体そういうところに出てる役者はそれなりに上手い。セットもちゃんとしてる。ストーリーも練られている。いろいろとセンスがいい。「ニュートラルな演劇」とは演劇が持つエンターテイメント要素をバランスよく高めた芝居のことである。だが、俺は思うのだ。「バランスなんてどうでもいいだろう?」と。

 「身長2m以上の役者を集めた芝居です」なんて聞くと、「観に行ってもいいかな?」と思う。だが、「185cm以上です」なら、別に行きたいとも思わない。185cmだって結構長身だけどね。「体重150kg以上のデブだけを集めました」なら、ちょっとどんなものか興味がわく。「90kg以上」なら別にどうでもいい。

 では、「身長185cm以上で、90kg以上を集めました」ならどうか?多少興味はわくか?いや、わかないね。エンターテイメントは総合点じゃないんだよ。それに「視力2.0以上を集めました」が追加されてもダメだ。視力ならニカウさんレベルまでいかないと。

 ここでかつてどこかで読んだリセットNの夏井氏の発言を思い出す。彼は言う「奇形的な演劇はダメ」。彼が言う「奇形的な演劇」とは、「バランスを欠いて何かの要素が突出した演劇」のことだろう。要するに「何かに特化された演劇」のことである。彼はそれはダメであるという。気が合わないな。当たり前だ。

 ナイロンのケラは一時ことあるごとに「サブカルの復権」を口にしてた。演劇が「サブカルの復権」に寄与するとしたら、それは「何かに特化された演劇」意外にあり得ないと思ってしまうが、それは素人考えなのか?俺が一本だけ観たナイロン作品は完璧な「ニュートラルな芝居」だった。ギャグもまあ面白くてそこそこ笑えたし、セットも立派で「それだけを目当てに観に行くことはないが、高品質を感じさせる要素」に満ちあふれていたが、「それだけを目当てに観に行くことのない」要素がいくら集まっても観に行くことはない。俺はね。それは演劇じゃなくても同じ「それだけでは感動まではしないけどまあまあ優れていると感じさせるコード進行、メロディ、リズム、声質をバランスよく備えたアーティスト」のファンになることはない。とにかく「サブカル」とか言ってるのに作品を観た感想が「うーん、フツーだな」となっちゃうのが俺には不思議だった。俺にはね。

 ところで俺はナイロンを観たとき「うーん、フツーだな」と感じたのだが、実は「うーん、フツーだな」という感想を与えることは実はスゴイことなのである。何でもいいから目の前のCDでも漫画でも本でも手に取ってみよう。それはあなたにとって面白かったりつまらなかったり感動だったり不快だったりいろいろするだろうが、「うーん、フツーだな」なんて感想が胸に去来するだろうか?「うーん、フツーだな」なんて感想フツーは抱かない。「フツー」の作品は基本的に「フツーだな」などという感想をもたらさないのだ。

 「ニュートラルな演劇」のすごいところはそこである。「フツーな感じにしよう、バランスをよくしよう」という強い意図的なものがないとそれは出来上がらないのである。フツーに作ってはいけないのである。「ニュートラルな演劇」とは、「漫然と作ったらバランスよくなった芝居」ではなく、「バランスに命をかけた演劇」のことなのだ。漫然とフツーに作ると、ゴキブリコンビナートみたいになる、むしろ。人間の興味は「フツー」偏っているので、「フツー」に作るとそれは「自然と」「何かに特化される」のである。俺はそうならない「ニュートラルな演劇」を作れるその技量に畏怖する。それと同時にその「バランス」への情熱がどこから来るのか謎に思う。

 本谷とかノゾエとかメノジとか松尾人脈に属する人たちの芝居もおおむね異様にバランスがよい。特に本谷の「家族解散」ってのを俺は観たが、その「フツーさ加減」は異様である。「異様にフツー」って変だけどな。弟子がそんなだから俺は大人計画を観に行くことはないだろうな。

 あと、アングラとか聞くと「特化されまくったすさまじい軍団」って印象をついつい抱いてしまうが、たしかに寺山とか唐とか水族館劇場とか該当しまくる。今は丸くても過去の記録にアプローチすると絶対に「バランスに命をかけた芝居」などしてない。ところが、利賀で観た「スコット」なるかつて4大アングラと呼ばれた中の一翼だった人たちのお芝居。これがまたニュートラルの極み。セットも豪華、コミカルな笑いもあり、上手いのか下手なのか通常の意味でどうなのかはわからないが長年の研鑽の後を感じられる乱れない演技。だが、上質なそれらの要素が集まった作品がもたらす印象は「フツー」だった。俺の中での「アングラ演劇」の定義を大いに揺るがす結果となった(嘘。あらかじめ予想はついてた)。アングラだから何かに特化される演劇をしているなんてことは全くないのである。

 なんか演劇を作ったり観たりしている人の間で強烈な「バランスへの吸引力、魅惑」が作用しているようなのだ。俺には分からない。20年近くやってきて分からないのだからあと2000年ぐらい寿命が延長されないと俺には分かることはないだろう。

 

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