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鼻責めヤメロ [雑感]

 いや、やっても別にいいんだけどね。ただ、あまりにも鼻責めシーン多すぎて。

 え?何の話かって?AVの話だよ。ハードSM系の。

 昔はそんなに多くなかった気がする。これ、最近の傾向だよなー。ハード系だと必ず一本にワンシーンはある気がする。好きじゃないのでそこは早回し。まー早回しする責めの種類は別に鼻責めだけじゃない。一本のビデオ作品に様々なプレイが盛り込まれ、また、ユーザーの守備範囲もそれぞれだから、みんなそうやって、早回ししたり、「このシーン余り好きじゃないなー。早く終わんないかなー」と思いながらAVを鑑賞していると思う。だが、あまりにしょっちゅう毎回毎回だと「いいかげんにしろ」と言いたくなる。しかもたいてい長いしなー。鼻フックばかりか、鼻にこよりつっこんで鼻水出させたり、牛乳をシリンジで注入したり、延々とやるよなー。

 困るのはその鼻フック鼻水ぐちゃぐちゃのまま他の責めシーンに突入し、俺のツボをつく好きな責めと鼻責めの複合技になる時だ。非常に悔しい気分になる。今は可愛い娘もハードなシーンやる人が増えているとはいえ、やはり好みの子がが好みのプレイに突入するシーンは貴重だ。パッケージやお試し動画をひたすら漁ってそれなりに苦労して好みの顔の子を探り当てて観てるのに、おしりを叩くシーンだって見たいのは叩かれてるおしりだけじゃなくて、切なそうに耐え忍んでいる可愛い子の表情なのに、そこで責められているのはブスに変貌させられた「かつてかわいい顔であったモノ」だ。なんでわざわざブスにするかねー。可愛い子がひどい目にあってる素敵で貴重なシーンが目の前で展開されているのに、鼻責め前の顔がどうだったかを想像しながら見なきゃいけないなんて、理不尽この上ない。

 鼻責めの魅力って何なの?鼻は別に性感帯じゃないし、鼻フェチ人口も少ないだろう。また、プライベートでも変態を公言して長いこと生きてきて、「お尻を叩かれたい」「縛られたい」という女性を何人も見てきたが、「鼻責めして欲しい」子にはあったことがない。鼻責め好きはさぞかしリアルの相手見つけられなくて困るだろうな。ザマーミロと、言いたいが、あ、だからビデオにそれを求めるのか。困る。非常に困る。

 多分女性の顔をブス顔にすることで女性のプライドを傷つける効果が重要なんだと思う。じゃー自信満々そうなタカビー女だけを狙ってやれよ。気の強い女の気位をへし折ってやれよ。俺は見ないけどな。俺が好みとする控えめそうでイモっぽい小動物系の子にやるのはあまり需要がないんじゃないの?

 例えばイモっぽい小動物系の可愛い子としてはトップクラスの愛代さやかちゃん。
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すでに豚鼻と言っては失礼だが、ちょこんとした小さめの鼻がチャームポイント。鼻責めのやりがいも少ないだろう。やめろ。直ちにやめろ。

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(だが、必ず鼻責めを受けてしまう)。

また、ハード系もこなす小動物系美少女としてもっとも有名な南梨央奈ちゃん。

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鼻責めですべて台無しである。

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やるならこういう強そうな顔の女をやれよ。
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原紗央莉さん。さぞかし鼻責めのしがいがありそうな強そうなルックス。まあ俺は見ないけどな。

鼻責め全部ヤメロとは言わないが、もう少し控えめに展開してほしいものだ。特に俺が好みとする責めを展開してくれるアートビデオのまるかつさん、中嶋興業さん。

 

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1人の変態が出来るまで [雑感]

 かつて東北の寒村に1人の少年がいた。小学校時代は活発でひねくれたところのない子供だった。
 サッカーが好きで走るのもまあ得意だったので、中学校に入ったらサッカー部が陸上部がいいなーと思っていた。田舎の中学校はほぼ全員が運動部に入る。部活やらずに帰宅する子は少ない。
 だが、いざ入学してみたらサッカー部も陸上部もなかった。Jリーグなどない時代だったが、小規模な学校とはいえ、部活のラインナップにおいて、サッカー部の優先順位は高いはず。だが、なかった。剣道とか柔道はあったので、偏った部活編成だったと思われる。で、少年はどうしたか?どこにも入らなかった。クラスのほとんどが部活に所属し、放課後を過ごす中、1人帰宅するようになった。この頃の子供は部活などで人間関係やらいろいろと学び、またスポーツに熱中することが青春の思い出となり、のちの人格形成に影響をもたらすのだろうが、それがなかった。少年は大人になり、振り返ってこういう「中学にサッカー部、陸上部がなかったことがそもそもの始まりだったと思う」
 1人家に帰っても周りは田んぼと果樹園と森しかない。クラスメイトはみんな部活。遊ぶ相手も場所もない。少年は本を読むようになった。「中高時代が一番本読んでたなー。今はあまり読まない」大人になった少年は当時をこう語る。
 それと連動してかつて活発で社交的だった少年は寡黙になり、クラスメイトたちの馬鹿騒ぎにも積極的に乗らなくなり、マジメでおとなしいやつというポジションをクラスの中で勝ち得ていく。当時校内暴力全盛期で、ちょっとへタレ目の生徒ですら、すこしはヤンキーテイストをライフスタイル、ファッションに取り入れていて、クラス総ツッパリ化現象が起きていたが、そのウェーブにも乗れなかった。すでに「マジメ枠でいいや」と思っていたので、乗ろうと言う気もなかった。え?イジメられたんじゃないかって?気がつかない形でのイジメはあったかも知れないが、明確な迫害はなかったよ。あまりに異質なものは打たれないものだよ。
 自らの真面目さに洗脳されたのか、高校に入るとガリ勉ってかっこいいなという妙な価値観に取り憑かれ始める。学園ドラマとかで出てくる青春を謳歌してるクラスメイトを冷たい目で見下ろしている嫌なやつ。ああいうのにちゃんとなりたいという謎の価値観というか美意識にとりつかれていった。「こいつ実は勉強家だな」と思われているクラスメイトは他にもいる。だが、ガリ勉感むき出しで学園ライフを過ごしてる奴は実際にはそういない。
 そこでガリ勉の限界にトライする日々がある期間続く。どのくらいガリ勉だったかというと、休み時間はもちろん机に向かっている。体育祭的なものは休む(勉強のため)。文化祭も休む(勉強のため)。不思議に先生に怒られることはなかった。で、修学旅行も行かないと言い出したのだが、これはさすがに親、教師両方に止められた。しょうがないので勉強道具離さないまま修学旅行を過ごしきった。
 当然オナニーもしなかった。時間、体力の無駄というより、性への関心自体が膨大なエネルギーを奪うと思っていたので、性への関心禁止を自分に課した。ところがそんなのうまくいくはずないよねー。性欲真っ盛りなんだから。当然時々夢精する。今でもそうなのだが結構明晰夢の持ち主である。つまり、「あ、夢だ」と自分で分かる。調子いい時は夢の内容をコントロール出来る。夢の中ぐらいいいだろ?エロいこと。と、夢の中の自分が思う。で、夢精するんだけど、当時の夢の内容はすべてレイプだった。高校は男子校だったので中学に戻ってクラスメイトを犯した。何故か一番憧れていた娘はターゲットから外していたのが今となっては興味深い。「イチャイチャする夢とか見てないなー」と、大人になった少年は語る。
 当時はエロ動画もエロビデオもない時代。エロ本読みたいなーと心のどっかで思っても性禁止なので買わない。ちょっとエッチなシーンのある少年マンガとかみんな読むんだけど、当然マンガ禁止も自分に課しているので買わない。で、少年はどうしたか?目を背けようとも溢れてくる衝動をどうしたか?ついに我慢しきれなくなって、自分のエロ妄想を絵心まったくない下手くそな絵で表現し、眺めていたのである。エロ絵描くんならエロ本やマンガ買ってもいっしょじゃんって思うだろ?全然禁欲になってないじゃんって思うだろ?全くそのとおりなのだが、まあ人間とはそういう矛盾した愚かな生き物なのである。
 ある日家を片付けていた母親にその絵が見つかった。その絵の内容というのが…裸の女性がまあ描かれてるのだが…回転するノコギリで拘束された女性の股間を破壊してる絵だった(吹き出す血も描かれてた)…この事件はものすごく恥ずかしかったが、母親のショックの相当なものだったろうなー。
 自らの性衝動に背を向けすぎて歪んでしまったものと思われる。そのうち「エロ本はダメでも読書ならいいだろ?文学ならいいだろ?」という合理のかけらもない「法の例外」を自分に認め、エロい本を読み出す。富士見ロマン文庫というのが当時あって、エロの名作を出していた。サドとかアポリネールの「一万一千本の鞭」とか「O嬢の物語」とかそうそうたる品揃えだったが、俺が注目したのはビクトリアン・エロチカと言われる一連の作品だった。ビクトリア王朝の頃のイギリスは女性が厚く保護され、女性の地位が高かった。するとその反動で男たちは女性をいたぶり虐げる小説を書き、地下出版し、密かに流通させていたのだ。「A Man With a Maid」シリーズというのがあり、とある貴族があるお屋敷に引っ越したら、何故か地下室があり、様々な拘束具がおかれた拷問部屋を見つける。その部屋を利用して反抗的なメイドを…というやつで、愛読していた。読みながらオナニーすればいいのに、オナニーは禁止なので、読みながらいつしか眠り、その夜は夢精…というのを繰り返していた。
 まあそんな高校生活を送っていたのだが、やはり若き衝動には逆らえない。ついには我慢しきれなくなり、オナニーを解禁してしまうのだった。それが忘れもしない高校3年の元日だった。受験上一番大事な時期。もう数ヶ月我慢すればいいのにね。
 大学入って一人暮らしが始まってからはもう、オナ禁とか関係なくなり、エロ本とか普通に買うようになる。だが、その時点で買うのはSM雑誌とかだった。ノーマルなのに興味がなくなっていた。そしてずっと何十年もそのまま変態だと、大人になった少年は語る。そして、彼は話をこう締めくくった。
 「若い時は普通に回りの男子とバカなエロ話して盛り上がったり、スポーツに勤しんだり、恋愛したりしたほうがいいよ。禁欲は歪んだエロを生むよ。まあ全ての原因は中学校にサッカー部がなかったことだな。」

 これを読んでる親御さんで「ウチの子供は反抗しないし、手がかからなくていいなー」と思ってる人。逆に心配しましょう。その子供は変態になるかもしれません。
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「ワイルド・スピード」観に行きたい [文化]

 数日後日本で公開になる「ワイルド・スピード」シリーズの新作。これは絶対観に行きたい。なにしろジェイソン・ステイサムが出るのだから。今や脳筋アクションスターとしては全世界トップに君臨するステイサムがやはり脳筋アクション映画としてトップレベルの水準をキープしている「ワイルド・スピード」シリーズに出るという画期的記念碑的事件。見逃さないわけにはいかない。

 「え?『ワイルド・スピード』シリーズがトップレベル?『エクスペンダブルズ』シリーズの方が脳筋レベル上じゃないの?」という反論を胸に抱いた方もいるかも知れない。確かに脳筋濃度、脳筋臭は「エクスペンダブルズ」シリーズの方が断然上である。だが、誰も逆らえないハリウッドの脳筋王シルベスター・スタローンの総指揮の元、脳筋以外のスタッフを完全排除してしまったその作品群は、さながら剛速球ストレートど真ん中しか投げない熱血ピッチャーのようであり、そんなピッチャーいたら野球ファンじゃない俺でも一応は見てみたいから当然観るが、画面自体の迫力、エキサイティングネスを高めるには技術論が必要であり、脳筋スタッフで全部固めては剛速球ストレートど真ん中だけでは普通エースピッチャーにはなれないのと同様、映像自体の吸引力や面白さはちょっと下がるかも。

 たとえば、「ワイルド・スピード4」(以下「4」)では、いつもながらものすごいスピード感のカーアクションが展開し、レース状態のままだだっ広い荒野から一気にトンネルだか洞窟だかに入るとき、見ていた俺は思わず「あ、ぶつかりそう」と首をぐっとすくめてしまい、首が痛くなった。「アクション映画も遊園地のアトラクションも同じ」と割り切った姿勢が生み出す素晴らしい映像演出であるが、ここまで客を画面に没入させるには技術的な細かいあれこれがきっちりこなされてなくてはならず、脳筋だけで構成されたスタッフでは不可能である。

 また、「5」では、金庫破りをするのだが、普通の映画で金庫破りなら「どうやってロックを外すか?」「どうやって厳重な警備をかいくぐるか」が重要なテーマとなり、繊細でスリリングな頭脳プレーが見所を形成するのだが、脳筋なので車と金庫をチェーンでつないで車のパワーで壁をぶち破って金庫ごと運び出す(「開けるの後でいいじゃん」)。その後おなじみの激しいカーアクションが展開するのだが、急加速、急ブレーキ、急ハンドルに連動して巨大金庫は路上で舞い踊り、街を破壊し、そのまま敵をやっつける武器となる。素晴らしい脳筋着想だが、逆に脳筋スタッフだけだとこういう着想にたどり着けないんじゃないかと思う。こういうシーンちゃんと実現するには意外にオタク的なこだわり持ったスタッフワークが必要で、脳筋から一歩引いた姿勢であれこれ熟考し、そしてまた脳筋路線を外さないよう心がけるというこれまた高度な頭脳プレーで作られていると思う。観てる方は「この映画、バカが作ってんじゃないの?」って印象を強く持つが、作ってる人たちは決してバカではない。

 まあ、いくつか例示したが、監督もスタッフも入れ替わるのでシリーズ中にはいまいちなのもある(「トーキョー・ドリフト」とか)が、アクションのバカ感をキープしつつちゃんと客を引きこむ力を持った「ワイルド・スピード」シリーズはその路線では世界最高水準といえるだろう。ジェイソン・ステイサムのキャラにぴったりであり、今まで出てなかったのが不思議なくらいだ。

 近日公開の新作は今まで主役を張ってた一人、ポール・ウォーカーの遺作となってしまった。時速180km出したポルシェで街灯に激突し、死んでしまった。プライベートも「ワイルド・スピード」であったことを自らの死を持って証明したのだ。役者の鑑と言えよう。

 第1作よりこのポール・ウォーカーとマッチョなタコ坊主ヴィン・ディーゼルのダブル主演でシリーズは展開されてきたが、最近は元プロレスラーのロック様が活躍するようになり、今度はそこにステイサムが絡むのである。非常に楽しみである。ステイサムのレギュラー化を望む気持ちもあるが、あまりメインで活躍するとやはり脳筋カーアクションシリーズのトップに君臨する「トランスポーター」シリーズと区別つかなくなるかも。それは困るなー。

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何故日本のアイドルを聴かず、KーPOPアイドルばかり聴くのか? [Kポップ大好きシリーズ]

https://www.youtube.com/embed/qEYOyZVWlzs

 AOAの最新曲。タイトルは「Like a cat」。ミュージックビデオでは「猫のように」こっそりと忍び込んで宝石を盗むというキャッツアイみたいな怪盗ストーリーが展開されているが、歌詞は「猫のように」あなたの寝床にそろりと忍び入るというまるで逆夜這いのようなシチュエーションが暗示されている。いやあこんなセクシーな女性達にそんなこと歌われては、おじさんドキッとしちゃうねえ。ちなみにこの曲日本発売もされているが、日本語詞ではその夜這いをほのめかすようなニュアンスは全面カットされている。

 まあ、日本では売れないだろうな。

 それは歌詞の過激さがカットされたからではなく、ちょっと前の韓流ブームの頃よりなお一層反韓ムードが高まっているからでもなく、彼女たちのセクシーかつキュートなたたずまいも文化の壁をこえられず現地では美女でも日本人男性の目から見ればちょっと微妙なルックスになってしまうからでもなく、そもそもこういう路線のアイドルに日本では需要がない。

 それは日本のアイドル状況を見れば分かる。現在ヒットチャートはAKBグループの天下である。プロデューサーの秋元康は日本のアイドル史においてなにをしてしまったか?しでかしてしまったか?それは徹底したカジュアル化である。現在日本でのアイドルの条件とは、等身大であることである。クラスに一人はいそうな感じ。しかもマドンナ的ポジションですらないぐらいの身近な雰囲気。それが大事とされる。スーパースターはいらないのである。もともとの素質に加えて恐らく超絶ストイックな生活から作り出される極限まで鍛え上げられたプロポーション、ダンス、歌などいらないのである。

 80年代に「なんかバイト感覚でやってるゆるい感じ」が売りという画期的なコンセプトの元におニャン子クラブで一大サクセスを成し遂げ、そして数十年経っても未だ王座の位置に君臨しているのだ。今後ももう状況は変わることはないであろう。でも、それがいけないとは言わない。実は嫌いじゃない。AKBとかが出てるバラエティとかよく観る。下手な若手芸人見てるより面白いな、と思うことが何度もある。バラエティでキャラを立てることの方が彼女らにとって重要なので、みんな頑張ってる。受け答えとか聞いてて頭の回転早いなって思う娘もいる。

 でも、歌は聴かない。PVも観ない。サウンド面でもステージパフォーマンスでもそっちは勝負所じゃないので無難な方へ無難な方へ演出が向いてるのが明白である。驚くほど冒険やチャレンジがない。そういうの求められてないのだ。等身大じゃなくなってしまうから。何故か知らないがほとんどの曲が「アグレッシブさの抜けたハードロックみたいな(なんだそりゃ?)バンドサウンド」みたいなところに着地している。

 これに対して韓国のガールズグループの等身大を拒否する感じはすごい。大体グループ名だけ見てもやれ女神だビーナスだ天使だ星だとすさまじい(ちょっと引く)。サウンド面ではあるものはジャズだし、あるものはゴリゴリのデジタルダンスチューンだし、あるものはメロディがアイドルとしてあり得ないぐらい昭和演歌風だし、あるものはオールディーズ風だし、それぞれが差別化に心血を注いでるのがよく分かる。そういうのが見てて楽しいのだ。日本のアイドル系ポップスはバラエティ感が薄いと思う。バラエティ番組は頑張るくせに。

 そんなわけで数年前まで「Jポップ大好き」を公言し、そんな名前のコラム執筆に精を出していた俺だが、最近は完全にKポップよりになってる。すくなくともアイドルに関しては。

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爆発記念日に寄せて(後編)

 さて、前回は「危険煽り派」が科学を装って垂れ流す言説は、初歩的知識でも突っ込めるタワゴトばかりの一例を示しつつ、そうはいっても認識論的に懐疑すれば、何だって「捏造だ 御用だ」と言えてしまう危うさについて述べた。科学的に何かを述べるには基本、権威の受容から出発しなくてはならないのだが、実はそうでない科学のジャンルもある。そう、数学である。3+4が7であるのは何ら権威の受容と関係がない。思考のみが真偽を判定する世界である。

 チェルノブイリ後にベストセラーとなった広瀬隆の「危険な話」には「内部被曝は外部被曝の数億倍、数兆倍」という話が出てくる。細胞が放射性物質に近づくほど受ける影響は距離の二乗に反比例するので、距離が半分になれば4倍、その半分で16倍・・・内部被曝では放射性原子が細胞に接するところまで行くのでその効果たるや外部被曝の数億倍、数兆倍、距離0で無限大に拡散というまことに恐ろしい話である。大体反原発的な人が「外部被曝、内部被曝」を語り出すときはその話がベースになっている。内部被曝が外部被曝とはまた別な注意が必要なことは俺も同意する。だが、数億倍?数兆倍?・・・無限へと拡散・・・????

 学校の授業でも趣味の読書でもいいから、少しでも物理に接したことがある人なら、何かエネルギーを出してる線源があって、それにどんどん近づくと、受けるエネルギー(=ダメージ)が無限大まで拡散するなんて聞くと「え?」と耳を疑うだろう。発するエネルギーは有限なのに、受け取る側が無限大に効果を取り出せるなんて、永久機関の一つや二つ簡単に作れそうである。

 プルトニウム239の半減期は2万4千年。つまり体内にプルトニウム239が侵入すると2万4千年以内にアルファ粒子を一個放つ確率が50パーセントである。原子一個ぐらい体内に摂取しても何の問題もなさそうだが、細胞に接触したらダメージ無限大だという。不思議な話だと思わないかい?

 実はそこにはトリックがあるのである。中学校か、せいぜい高校一年レベルの数学で見破れる安いトリックが。
まず、「2乗に反比例」というのが数学的に正確な表現ではない。もう少しマシな表現にすると、「十分な距離があれば、2乗に反比例に近似値的になる」である。距離が近いと、全く成立しない。

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 まず、とある放射性原子に掌を近づけていく思考実験をしてみよう。放たれるエネルギーは熱とする。熱源に掌が触れたとき、掌は溶けてしまうだろうか?熱源が1分にNカロリーの熱を放つとき、掌はその何分の一かを受け取るであろう(図1)。握り拳を作ったりしない限り、掌は最大でN/2の熱を受け取る。これが掌が原子に触れたときで、掌の反対側にも熱が放たれるからNにはならないし、Nより大きくもならない。無限大にもならない。
 指先と手首と熱源が正三角形を描く距離の時、つまり60°掌がカバーするとき、平面上では60°/360°で、N/6のエネルギーを受け取る(図3)。90°になるとき、N/4を受け取る(図4)。立体だとどのくらい受け取るのか分からないが、N/4になる距離は必ず存在するだろう。じゃあ距離を半分にすればN/2になるか?ならない。N/4とN/2の間の値になるはずである。何しろ接してないのだから(図5)。

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 掌が熱源からある距離にあり、Pのエネルギーを受け取ってるとしよう。掌を距離が半分になるまで近づけると、掌の中央の部分の1/4の面積でさっき受けた分と同じ熱量を受け取る(図6)。では、掌全体でさっきの4倍の熱量を受け取るだろうか?4Pを受け取るだろうか?受け取らない。理由は、端に行くにつれて角度が急だから。ものすごくでかい紙を電球に近づけてみよう。端っこが真ん中より暗くなるだろ(図7)?均等じゃないんだよ。均等になるのは、紙が電球から遠いときだよ(といっても、均等に近づくだけで完全に均等にはならない(図8))。
 実際に計算すると難しいが、中学から高一の数学レベルで大体理解できる話である。ただ、「ちょっと待て」って気づいて考える暇は必要だ。さっと読んだだけでは騙されてしまうたちの悪いトリックだ。

 そんなわけで、「危険煽り派」が安い科学トリックで科学に疎くて興味もない一般市民を騙そうとしてるってことが分かったと思う。だが、俺は「もっと科学的にものごとをとらえよう」なんてメッセージするつもりもない。何故なら俺は科学とか読書とか無縁な人間の味方だから。俺が気づいたのはたまたま暇があったから。だからこいう言う。

科学なんて、権威を受け入れてればいいんだよ

 「危険煽り派」が提唱するような「オルタナティブな科学」(科学によく似た低次元なタワゴト)に身を委ねるのは危険極まりない。

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爆発記念日によせて(前編) [社会]

「福島に住むのは危険です!一刻も早く避難してください!」

「避難してきましたよ」

「キャー!ピカがうつる!近寄らないで!」

 

 http://takedanet.com/archives/1013802442.html

 武田邦彦先生によれば今月中に日本に住めなくなる日が来るらしい。この予想が当たるか外れるかは分からないが、当たるにしろ外れるにしろ、「住めなくなる」と断言した人間が来月も日本に住み続けるなんて論理的にあり得ないので、来月には武田邦彦もその信者も日本にはいないことは間違いない。いけしゃあしゃあとさんまの番組とかに出るなよ

 そんなわけで、原発事故後に極端に危険を煽る発言が横行したが、彼らの情報源をたどると、武田邦彦やら上杉隆やらマヌケな発言をするやつらとか、怪しい商売をするやつら(クリス・バズビー)ばかりにいきあたり、そいつらの発言の整合性をしっかり観察すれば極端な危険派にはならないですむわけだが、まあ日々そんなに暇じゃなければ注意深く検証する暇もなく、騙されてしまう人もいるかも知れない。

 恐ろしい健康被害が出るという人と、そんなには出ないだろうという人、実際どちらが科学的なのか?ある場では預託実効線量がどうのLNT仮説がどうの線量率効果がどうの難しい議論がなされていて、もともと理系的素養があるかちょっとは勉強するかしないと議論に参加できない。日々忙しい人は教養を深める暇もなく、マヌケな発言者に騙されてしまうかも知れない。

 

だが、常識レベルで判定できることもある。それをこれから書いてみよう。

 

 例えば反原発の人がよく言う「同じ線量でも自然由来の放射線の方が人工放射線よりリスクが少ない」というもの。「養殖の魚より天然の方が栄養がたっぷりで美味しい」みたいなニュアンスが感じられ、エコ好きな奥様とかは騙されてしまいそうだ。だが、魚と放射線は違うのである。アルファ線はヘリウム原子核と同じ陽子と中性子2個ずつの粒子、ベータ線は電子、ガンマ線は可視光線と同じ仲間の電磁波。こういったものは魚や野菜のように、複雑な内部組織を持たない。個体ごとにみんな少しずつ違うような個性をもたない。波長であるとか運動量であるとか、限定された変数で性質はみんな一様に決まってしまい、例えば電子一個といったとき発生源が天然とか人工とか関係ない。そんなのは物理の基本であり、これが違うなら20世紀の物理学の成果が根底からくつがえされる。コペルニクスクラスの大変革がおこるような大胆な意見である。技術体系もくつがえるので、人工衛星は落ちてくるかも知れないし、ケータイは明日から使えなくなるかも知れない。

 

 だから「自然由来の方がマシ」なんて聞くと、中高の理科で平均レベルの点数を取ってた人や、科学の本を興味持ってよんだりしたことが一回でもあるような人なら「え?」って耳を疑ってしまうわけだが、もしかしたら反原発の人はそのくらいの「コペルニクスクラスの大変革」があり得ると思ってるかも知れない。あるいは、中高の理科の教科書レベルから御用学者の捏造で事実がねじ曲げられていると考えてるかも知れない。原発から利権を得ている御用学者が理科の教科書まで書き換えてるなんて常識的にはにわかには信じがたいが、この疑いは実は意外に根深く、根底的な反論が難しい。

 

 例えば、光の速度は毎秒30万km程度と科学の本に書いてある。これはマイケルソン・モーリーの実験で計測され、何度も追試され、いろんな観測事実と照合され、最早それが否定されるといろんなことが根底からくつがえされる前提的な真理のように扱われているが、我々のほとんどはマイケルソン・モーリーの実験を目撃などしてないのである。「じゃあやってみよう」と言われて目の前で展開されても、我々には何が起きたのか分からないし、機械の構造とかいくらでも疑う余地はある。計測機械の一つ一つについて一からつくるところから実験の全貌を見届けて、騙しがないかどうか完全にチェックすることは科学者でも不可能。科学に関して言えば、誰か知らない人が発見したことになっている観測やら法則やらを受け入れるしかない。つまり、権威を受け入れるところから始まるのである。疑い出せばいくらでも疑えるのである。

 

 学界でもはやゆるぎないものとされている前提的な定説でも、そこには「権威の受容」という怪しい基盤があり、そこを突けばいくらでも「捏造だ 利権だ 御用だ」と言えてしまう。理科の初歩知識でつっこめるタワゴトでも本気で信じてる人を動かすのは難しいのである。

 

 じゃあ、どうするか?御用だなんだというもはや認識論レベルの疑いの余地が入らない科学的つっこみは可能なのか?

 

 可能である。これについては長くなったので次回に続く!

 



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音痴に関する恐るべき事実 [活動記録]

 ミュージカル劇団だし、ライブっぽいこともやるので、稽古場では歌を作ってきて「こう歌うんだよ」と指導するということをしょっちゅう行ってるわけだが、当然すぐ習得する人となかなか身につかない人と差が出る。
 下手な人のレベルはこういっちゃあなんだが、毎回ビックリする。例えば「やまだ」という歌詞があって、全部音が「ラ・ラ・ラ」だとする。何かの理由で間違って伝わって、「ラ・ラ・ド」と最後の音を上げて歌ってしまっているメンバーがいる。「や」と「ま」はちゃんと歌えているので、当然、「『だ』は前の音と同じ音だよ」と教える。ところがある者はもうここで脱落する。「歌詞が違うのに同じ高さの音を出す」というハードルを越えられないのだ。
 あるいは、欲しい音と違う高さの音で歌ってくるので「もうちょっと上げて」とか「下げて」とか言う。これが「短3度あげて」とかだったらやはりそれなりに訓練された人じゃないと対応できないだろう。だが、それ以前の段階で「上げて」「下げて」でつまづく。言われてもきょとんとしている。「今出した音より、ちょっとかいっぱいか分からないけど、とりあえず高い音」という概念がそもそもないようだ。音程変えずに声色だけ変わったりして時に面白い。
 そういう方はだいたい和音の概念がないので、伴奏のコードにない音を平気で出してくる。伴奏は三和音なのに主音の半音下の音とか出してきて、聞いてるとぞわぞわしてくる。歌ってて気持ち悪くないのかと、思うが和音の概念がないと平気みたい。伴奏が3和音出してるとき、主音の半音下の音で歌うとメジャーセブンスになり、単純に3和音後ろでなってるときにメジャーセブンスかぶせるという、逆にある意味レベルが高くないと出来ないことを平気でやってのけるのである。
 で、まああれこれ苦労してなんとか時々外しながらも歌えるようになったとする。で、「キーがちょっと苦しそうだな」と思ったりして、翌日にはキーをちょっと上げたり下げたりした伴奏を作ってくる。そうすると、すごいことが起こる。なかなか歌えなかった人に限って新たに作ったキーとかお構いなしに前の音程のままで前と同様にちょっと外したりしながら歌うのである!
 俺は逆に絶対音感とかなくて、キーとか変えられても気づかずそのキーで歌ってしまうので、驚いてしまう。伴奏との関係である高さの声を出すのでなく、絶対的な音の高さで歌を覚えようとしてるなら、そりゃー歌を覚えるのも大変だろうなと思う。立ち向かってるレベルが高すぎるよ!
 コードの感覚は訓練次第で身につく。小学校の頃「ドミソ、ドファラ、シレソ」をピアノで先生がならして、どの和音か当てるっていうのをやって俺は平均以下だったが、今そんなのやってもきっと外すことはない(複雑な和音だと自信ないけど)。メンバーの皆さんがんばって下さい。
 なんて俺らしくもない前向きな励まし書いちゃったけど、絶対音感ってのは神から選ばれたエリートだけに備わった希有の能力だと思ってたし、世間でも絶対音感なんて聞くとなかなか手に入らない強力な武器ってことになってるが、そうではなく、音痴、歌のうまい人関係なくある程度備わってたり、備わってなかったりしていることが分かったのである。
 まあ俺なんかが作るレベルの曲は絶対音感とか逆にじゃまなので、いったん忘れて(無理か?)コードの感覚を身につけて下さい。むしろ。


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ストイックでいいんだよ、芸術なんだから [文化]

 今まで観た舞台表現の中で、一番「ストイックだなー」と感じたのはもう30年近く前に観た田中泯の舞踏だな。2時間ほどの作品だったが、最初舞台中央で横たわっている田中泯がおよそ1時間かけて立ち上がり、

残りの1時間かけて3歩ほど歩いた!
終わり!

 当時まだ東京出てきたばっかりで、舞台作品というものを数本しか観たことなかった時期だから、それはそれは東京という街の奥深さに畏怖したよ。そして、

インテリという種族がこの客席にはいて、この一見シンプル極まりない内容から、豊穣かつ多彩な意味世界を読み取り、引きこまれ魅惑された気持ちでその2時間を過ごし、「2時間あっという間だったよー」などと終演後言ったりするするんだろなー

と思うと、さらなる戦慄を覚えるのだった。

俺はと言えば、2時間集中なんて到底無理で、
「この後ご飯どこで食べようかなー」
とか思いながら過ごした。寝はしなかったけど。

 それからいろんな舞踏だのコンテンポラリーだの絶対演劇フェスティバルだの抽象的な作品を観てきたが、やっぱりあれがダントツにストイックだったな。同じ舞踏でも麿赤児さんのなんかは、抽象芸術とは思わせないような仕掛け、工夫に満ちており、つまりは、エンタメ要素がたっぷり導入されており、
「だから麿さんや大駱駝艦の人たちはテレビや映画の仕事いっぱい来るんだ。」
と思い、
一方でエンタメに背を向けたひたすら禁欲的な求道者の一群がおり、
「その人達はエンタメなんか関係なく学者や評論家やその他一握りのインテリゲンチア様相手にそれこそストイックな人生を過ごしていくんだろうなー」
などと思っていた。そしたら、なんと田中泯がその後売れた!タレント化した!

 いやー。世の中って何が起こるか分からないねーという一例でした。

 さて、では映画で「ストイックだなー」と思ったのは何だろう?真っ先に思い浮かぶのは園子温監督「部屋 the room」ってやつだな。長回しを多用した映画ってのが当時話題になっていた映画だが、その長回しっていうのがとにかく半端じゃない!長回し過ぎて、おまけに動きもあまりないので、
まるで映画館にいながらにして巨大写真パネルを長々と見せられているよう
だった。田中泯の舞踏は寝なかったけど、これは寝た。そして、一回寝て起きたら・・・
景色が変わってなかった!
恐るべき動画感ゼロ映画。ストイック極まりないと思い、それ以降園子温監督の映画は一本も観てない。だが、この話を周りにすると「そんなことない。最近の映画なんかエンターテイメント感満載だよ。」と言われる。全く俺の抱いている印象と違う話されるんだけど、作風変えたのだろうか?

 まあそんなわけで、何が「そんなわけ」なのかよく分からないが、世の中いろんな温度差があった方が楽しいという立場なので、ストイックな求道者の皆さんは客にこびることなく、益々ストイックにおのれの信じる道を突き進んで欲しい。
 え?俺?俺はサービス精神でやってるから全く逆だよ。製作過程はストイックであっても客には一片のストイックさをも強いてはいけないと誰よりも心がけているよ。俺はそれでいいんだよ。芸術じゃないし。


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死ね。直ちに死ね。 [活動記録]

 2000年代初頭だから10年以上前「ちょっぴりスパイシー」というお芝居を作ったとき、「絶対安全席」というのを考案した。俺たちの芝居は客からの至近距離で演者が「キケン・キタナイ」にまみれまくるので、余波が客にも届いてしまう。被害を受けてしまう。それを込みで臨場感を体験したい客と、物見遊山気分で高みの見物したい客とにに別れるのではないか?と思い、物見遊山気分の客は「キケン・キタナイ」を共有する客よりややブルジョアよりだろうと、お値段の方も上げてそういう席を設定した。もちろん、「それほど安全じゃねーじゃねえか!」というオチもちゃんと用意して。
 高野文子に「絶対安全剃刀」というマンガがあり、それをもじった。そのマンガは読んだことない。マンガに詳しい人たちの間では有名なマンガである。
 「安全席」くらいなら誰でも思いつきそうだが、上記の思考過程を踏んで「絶対」とつけているので、他の劇団・ダンスカンパニーが「絶対安全席」という名称を使った場合、偶然と言うことはあり得ない。みんなが思いつくことかも知れない。だったら俺らより前に使ってる劇団等あるはず。だが、それは確認できない。すなわち、俺ら以外で「絶対安全席」という名称を使用する劇団、及びダンスカンパニーは

1 パクリ
2 無意識のパクリ

のどちらかだ。2の無意識のパクリとは、思いついたつもりが何となく覚えていたことを思い出したに過ぎないことがあるということだ。作曲なんかしてるとよく起こる。「いいメロディ思いついた」と、思っても「あ、これ子供の頃に聴いたヒット曲のワンフレーズだった」と、後で気づくなんてことはよくある。アイディアなんてどこから降ってくるか分からないので当人には思いついたのか、記憶の片隅から想起されたのか区別つかないのはしょうがない。じゃあ罪がないかと言えばそうではない。作り手には何か思いついたとき、先に誰か既にやってないか検証する義務がある。また、「絶対安全席」なんて検索すればすぐに俺の劇団名とか出てくるので、関係者の誰かが気づくはず。「オリジナルじゃないからやめた方がいいよ」と、忠告する人間はいなかったのか?

とにかく、以上の考察により、

パクリにせよ、無意識のパクリにせよ。「絶対安全席」という言葉を使う行為は俺に対する挑発、喧嘩を売っていると解釈されてもしょうがない

 ホラー劇団と男肉 du soleil オマエだよオマエ

 俺はこういうことされるのが一番腹が立つので、お前らを文字通りもしくはお望み通りホラー・スプラッターなオブジェと化してあげたい。ミンチドソレイユにしてやりたいところだが、日本には刑法というものがあるので、何もやりません。やりません。やりません。(←これで脅迫で通報されることはなくなった)

ただ、ここに気持ちを吐露するのみ。

死ね。直ちに死ね。


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「美味しんぼ」もっとやれ [雑感]

 さて、巷で話題の「美味しんぼ」だが、俺の立場を表明したい。俺の立場は「もっとやれ」だ。鼻血描写なんて生ぬるい。もっとエグいの描けるはずだ。

 反原発界に流布する言説によると、震災以降新生児の7人に5人は奇形、または流産またはダウン症だという。
http://onodekita.sblo.jp/article/71335056.html これは反原発界ではオピニオンリーダー的な発言力を持つ熊本の医師オノデキタさんのブログ。ここで言われているように15人中12人という説もあるようだが、諸説あるにせよ「半数以上がフリークス」というのが運動家の中ではコンセンサスと考えて間違いないだろう。こんな状況が3年以上続いているのだ。3才以下の健常者率が半分を切っている。さらには奇形が産まれると役所から出生届の受理を拒否されるという話もある。出生届って赤ちゃんを連れて役所に行くわけでもないし、産婦人科から役所に「奇形が産まれたぞ」って連絡がいくわけでもないのに役所側はどうやって分かるのかさっぱり分からないが、反原発界隈ではそういうことになっているのだから仕方がない。

 これはすごいことで病院や保健所、あるいはママ友が集う井戸端会議の現場とかもさぞかし強烈な光景が展開されていることだろう。鼻血なんて微妙なネタ描いてないで是非それを描写して欲しい。花咲アキラ氏の緊張感のない絵柄で街を跳梁跋扈するフリークス軍団を描出して欲しい。読みたい。そんな「美味しんぼ」が俺は読みたいんだ。

 「まあ、ひどい」を連呼する栗田さん。「キイイ」と怒りのおたけびを上げる富井部長。そして最後に井戸川さんの一言「言わないだけなのです」で締めて欲しい。

 そこまでやれば、「美味しんぼ」バッシングを展開している安全派、推進派、放射脳批判派、アンチ風評被害派の皆さんも誰も何も言わなくなるかも知れない。「こりゃ何言ってもしょうがない」と。出る杭は打たれるけど、出過ぎた杭は最早誰も打つことはない。



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