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芸人バーまた行きたい [雑感]

 その頃、俺は設備雑工の仕事でとある建築現場に通い詰めていた。そこで行われた俺と親方との会話。
「中野に女芸人を集めて接客させているバーがあるらしいっすよ」
「へえ。可愛い娘いるのかなー、そこ」
「いや、きっとアジアンの隅田とかたんぽぽの川村とかそういうのばっかですよ、きっと」
「行きたいねえー」 

 と、いうことで意気投合し、俺と親方と二人、とある土曜日の夜に訪ねてみることにした。そのバーは中野と新中野の中間地点、どっちの商店街からも外れたただの住宅街の中に立地する。入れ替わり立ち替わり合計4名の女性とお話しすることが出来たが、期待通り全員ブスだった。3人はデブ。TVで見る有名女性芸人もデブ率高いけど、芸人の卵さんたちもやっぱりそうなんだー。そして、もう1人はデブじゃないし、それほどブスでもなかった。ただしスラブ人。中央アジア近辺の旧ソ諸国のうちのどれかの出身だと言ってた。どの国だったかは忘れた。だってあの辺国がいっぱいあってどれがどれだかすぐ分からなくなるじゃん。

 何をしゃべったか余りよく覚えてないが、楽しかった。キャバクラなんか行っても共通の話題なんてなく、沈黙が流れ、必死に話題を探し、話題を見つけてもたいして盛り上がらないので何とか面白くしようとがんばり、とにかくがんばり、「俺は高い金を払ってなんでこんなことしてるんだ」という暗澹たる気持ちで店を後にすることが多いわけだが、そんな風にはならなかった。音楽の話とかしてたかなー。当時日本の歌謡界は享楽的なダンスミュージックが著しく後退し、センチメンタルまたは励まし系なバンドばかり流行ってたので、「昨今の日本のポップスはダメ。韓流の方がマシ。でもフェアリーズは頑張れ」みたいな話して盛り上がった気がする。ブスとはいろいろと話が合うことが分かった。ブスの方が楽しくしゃべれる、それは男として幸せなのか?まあ今は深く考えないでおこう。

 そんなわけでまた行きたいと時々思う。芸人目指すブスの方々とまた楽しく話したいなー。本公演おわってからだな。

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少子化問題を解決する方法を教えます [社会]

 子供の頃、「人口爆発がどんどん進み、日本も食糧危機が数年後には訪れる」と散々脅されていたので、「人口なんてあまり増えない方がいいんじゃないか?人類がいつかどうせ滅びるなら文明の暴走、資源の枯渇、戦争、天変地異、公害、疫病等による地獄絵図的な壊滅よりも人口減少による先細り的な終末の方が人類にとって幸せじゃないか?」と考える癖がついている。が、経済的には人口は余り減らず、若年人口が保たれている方がどうやらいいらしい。だから少子化はよくないのだ。経済学のことはよく分からん。
 で、何故少子化が進んでいるか?理由としてあげられるのは、長引く不況、格差拡大、社会不安、それらによって若者達が貧困化し余裕がなくなっている等だ。だから、もっと若者達が豊かになり、余裕が出来れば子作りに励むよりになり、少子化は止まるだろう。少子化問題へのコメントはおおむねそういう主旨で書かれている。政治のニュースから聞こえてくる言説も大体そんな調子だ。だが、それは本当だろうか?

逆じゃないか?と、思う。
 
 どうやったら少子化が抑えられ、若者達が子作りに励むようになるか?はっきり言おう。もっと貧困化を進めろと。格差を増大させ、一握りの豊かな層と大半の惨めな層に二極分化させ、最低限の文化的生活などとんでもない、明日も生きてられるかどうかのギリギリのラインまで追い込んでしまえ。
 自分1人が生きていけるかどうかも、ギリギリのラインで、子供など作れるか?みんな思うだろう?ところが、不思議なことに、ガンガン作り出すのである。これは歴史が実証している。そして、世界のニュースが。
 ベビーブームは戦争直後の最も国民が貧困に喘いでいた時代に起こった。戦争が終わった安堵感が原因なんて説得力の希薄な分析がウィキペディアなんかに書かれているが、今の若者より当時の若者の方が物質的経済的に豊かで余裕があったなんて言えるのか?
 あるいは人口爆発を起こしている国々を見てみるがいい。そこで子供をガンガン産んでいるのは、飢餓に喘いでいる超貧民層である。何故食うや食わずの境遇に置かれている人民がものすごい勢いで子供を生産するのか?もっと苦しくなるに決まってるのになぜやるのか?これが不思議でしょうがないと常々思っていた人はいっぱいいるだろう。ちなみにそういう国の貧困層は知識レベルも低く、バースコントロールへの意識が希薄だからという説明は成立しないらしい、コンドームを配給してもダメだったらしい。つまり、蒙昧だから後先考えずセックスしまくって結果望まれない子供を次々に孕んでいくわけじゃなく、ちゃんと子供を産みたがって産んでるらしい。
 あるいは現代日本において、早々と結婚し早々と妊娠出産を迎える層がどういう層なのか見てみるといい。それはセレブ、ハイソサエティーだろうか?経済的にはあまり上の方でないやんちゃで荒んだ階層の方が早婚、多産の傾向があるのではないか?
 代表的な例を挙げたが、世界のいろんな国々を見ても、歴史を概観しても、おおむね豊かな人よりギリギリの人の方が子作りに積極的な傾向がある。不思議なのだが、人間はそういう習性なんだと結論するしかない。

 なんとかこれにもっともらしい理由をひねりだすことが出来るとすれば、人間は余裕を持つと余暇・レジャー・趣味を大切にしようとしはじめ、ある者は哲学的なことに思いをめぐらせたり、ある者は妊娠に結びつかない性の形を追求し始めたり、ある者は仮想現実の異性の方がいいと思い始めたり、とにかく屈折し出すということだ。人類の自然な本能の形から遠ざかり出すのだ。
 これは統計的に掘り下げてないけど、自殺に関しても同様なのではないかと思う。明日生き延びられるかどうかわからない危険な状況ではあまり自殺って起こらないのではないか?食うに困らず、「俺は何のために生きているのか?」なんてことを考える時間がたっぷりあると何人かは自殺もいいなと思い始めるのではないか?この辺はあまり自信ないけど、自殺も豊かさとの相関関係があるような気がする。
 とにかく、余裕を持つと人間は「子供なんて作ったり育てたりする余裕なんてないなあ」と考え出す不思議な習性を持っているようだ。矛盾しているんだけど、そういう風に見える。
 だから、少子化を解決するにはもっと庶民から「生かさぬよう、殺さぬよう」徹底的に搾り取って、ぐうの音も出ない惨めで辛い状況に追い込むのが一番と思われる。変な理論だけど、歴史が実証しているのだからしょうがない。子育て支援などしない方がいいのかも。少子化大臣さん、むしろ子育て税とか導入してみては?

追記:東日本大震災の直後に被災者の間でちょっとした結婚ブームが起こったのを思い出した。過酷な状況の中で配偶者を求める気持ちは子供欲しい気持ちとは別口かもしれないけどね。

タグ:少子化問題
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やっぱり一匹狼 [雑感]

 小劇場界においては一匹狼をきどった言動が多い俺だが、「一匹狼」は基本かっこいいので、「本当はそれ程でもないのに、かっこつけたいがために誇張して言ってるんじゃない?」と、人に言われそうだし、自分でもふとそういう疑念はわかないでもない。まあ例外的に交流のある演劇団体も2つぐらいはあるし、「一匹狼」が正確な表現じゃないのは分かってるよ。

 だが、基本自分とこ以外の小劇場は基本的に嫌いだな。敵だよ。敵。

 昔、新感線ってとこの某役者に偶然会うことがあり、向こうが何故か我々のことを知っており「あなたがゴキブリコンビナートですか。一度見たいと思ってるんですよ」とまで言われたが、「僕も新感線一度観たいと思ってるんですよ」とは返せなかった。こういうのは、社交的あいさつというものであり、嘘で塗り固めた言葉の応酬が常識なので、そう返すべきだったのだが、ダメだった。だって別に観たくないもん。こんな性格だから制作弱いんだろうな。
 「だって観たくないもん」って書いたが、実はそれに対しても疑念が芽生えることがあった。単に食わず嫌いなんじゃないか?実際観たら面白いんじゃないか?一匹狼を気取りたいからそう自分に暗示をかけているだけではないか?
 未だ見たことない新感線に対するイメージは、「観た後何も残らなくていいから、とにかく派手にやる。照明も視覚的な仕掛けもこけおどしでいいからとにかく豪華に」ってな感じだった。はっきり言ってそのコンセプトには全面賛成である。演劇のアトラクション化を目指す俺に反対する理由はない。だとしたら、やっぱり食わず嫌いで、実際観たら面白いのではないか?
 だが...

 久しぶりにバルト9行ったら、例によって「ゲキ×シネ」とかいうやつを大々的に広告していて、予告編を観ることになった。新感線のお芝居のダイジェスト的なものがスクリーンに流れた。

 やっぱり嫌いだよ、俺、コレ。

 セリフのトーンとか、ギャグの作る空気とか、全部イヤ。不快。気持ち悪い。ミュージカル的な演出もちりばめられているんだが、何故ミュージカルをやるかの理由が俺と全く違うのが明確に伝わってくる。どうイヤなのか論理的にここで説明することは出来ない。生理的な部分もあるから。人間の種類が違うとしか答えられない。
 やつらもゴキブリコンビナートに気持ち悪いなんて言われたくないだろう。「気持ち悪いのはお前だ」と返したくなるだろうが、それで結構だと思った。そういう関係性なのだ、人間の種類として。
 だが、思うのは別に新感線だけが、特別気持ち悪いわけじゃない。新感線に罪はないのだ。小劇場というのはそういう場なのだ。ああいうのが気持ち悪いという俺の気持ちを分かってくれる人間はこの小劇場界にはほとんどいないだろう。だが、俺は思う。世間一般の感覚として俺の抱いた気持ちは決してマイナーではない。あれを気持ち悪いという人は小劇場の外にはいっぱいいるはずである。
 ちなみに「なんでもいいから派手にやれ」コンセプトといえば、他に劇団四季とかが思い浮かぶが、四季の芝居は別に気持ち悪くなかった。TVドラマやアニメ、映画等で行われるお芝居的な事象全てが気持ち悪いわけではない。小劇場とその界隈に蔓延するある種のセンスに拒絶反応があるようだ。どこからどこがダメなのか?何は許せるのか?今後も検証していきたい。
 とにかく、「よく知らないから明言できないけどどっちかっていうと嫌いかな?」という印象だった新感線が「明確に嫌い」になった。それと、「食わず嫌いでたいした根拠もないのでは?」という疑念が多少軽減され、「やっぱり一匹狼でいいや」との決意を新たに固める俺なのであった。

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共通テーマ:演劇

オリンピックが楽しみだ [雑感]

 「え?今年オリンピックなの?」
 次回夏期オリンピックまであと○年、W杯までまであと○年とかしょっちゅう指折り数えるほどスポーツ好きではないので、大体ひとに言われて気づく。ほう、今年なのかと。
 冬期で楽しみなのは、いろいろお騒がせ選手が現れること。前回は「反省してま〜す」「チッ、うるせえな」の国母さんだっけ?その前は今井さん。今井成田兄妹。
 今井さんは、複雑な家庭環境、ラップ、整形、兄妹そろってキラキラネーム、あっという間の離婚、風俗勤務、ヌード発表等、出てくる話題がいちいちDQNとして完璧!!今でもその動向から目が離せない。
 さあ、今年はどんなキャラが登場するのか、今から楽しみだ。スポーツニュースをしっかりチェックしておこう。ちなみに競技は見ない。
 夏期オリンピックではあまりその手のニュースは出ない。何故なら基本的にスポーツってのは中高の部活あたりを競技人口のメイン層としていて、そこから勝ち上がってきた優秀な選手が晴れの舞台で活躍する。そこでは鬼コーチ、鬼先輩による封建的、軍事教練的なしごき、スパルタ指導が行われ、精神主義、根性論が人格形成の根幹までしみついたキャラクターとして成長する。
 実は企業もそういうキャラが欲しいので、採用ではスポーツマンタイプが優先的に採られる。就活入門みたいな本を読むと「スポーツに縁のない学生生活を送っていても、『何かスポーツやってましたか?』と訊かれたら、強引にでもやってたことにして答えよう。」って書いてある。「体育会系」は単にスポーツ界だけの話ではなく、日本の社会、経済の成り立ちの根本によこたわる何か重要なものなのだ。
 まあ、それは余談として、夏期オリンピックに出てくる選手は、高校球児と同様、日本スポーツ教育の精神論で徹底的に洗脳された人たちなので、基本ひたむき、疑うことを知らない一本気な性格の人間が多いはず。少なくとも表向きはさわやかで純真、それを演じることに長けた人たちであろう。中身はただのチンピラみたいなやんちゃ坊主も多いかも知れないが、それを表に出さない術を熟知している。
 ところが、ウィンタースポーツはちょっと違うノリを感じる。単にレジャーっぽいというのではなく、いや、その面も重要なのだが、例えばスノボとかは、グラフィティ(落書き)とかと同列のあの手の文化の一翼を形成している。ラップのスキルを上達させるのと同じノリで打ち込むので、ファッションの一部あるいはファッションと同等に打ち込むべきもの。腰パンだからまじめじゃないなんて非難するのはお門違いだ。彼らは真面目に自分が属する文化のスタイルを貫いている。あれが彼らのTPOなのだ。そのTPOとは「悪そなやつは大体友達」というTPOである。
 夏期オリンピックや高校野球と同種の「部活のTPO」で評価してはいけない。チャラいやつがスノボに打ち込んだとして、打ち込みすぎてチャラくなくなったら、彼らの文化的文脈のなかでは「負け」である。それは国民の期待なんかよりずっと重要なことだ、彼らのライフスタイルにおいて。
 そんなわけで、冬季オリンピックにおいては代表選手が、「え?」って言うような言動を次々に起こす。彼らにとっては普通のことでも、我々はビックリする。それはもともと棲み分けされている異文化が接触する貴重な機会であり、その違和感を楽しむべきなのだ。さあ、今年はどんな印象深いエピソードを提供してくれるだろう。大変楽しみだ。

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嫌いなやつからこそ学ばねばならない [雑感]

かつて大嫌いなサブカル系ライターがいて、嫌いなので
「早く死ね」と思ってたら

死んでた。

彼が紡ぎ出す言葉のことごとくが嫌いだったが、一つだけ素敵な言葉を残した。
それは、「悪趣味の良趣味」
俺にとっての敵をこれほど分かりやすく言い表した言葉はない。

あいつとあいつとあいつとあいつは嫌い。俺の敵。
その本質は「悪趣味の良趣味」
ステイタス主義自体にアンチを投げかける俺の思考と鋭く対立する
うん。いい言葉だ。

嫌いなやつの不快な発言もじっくりチェックして、いろいろ取り入れることが重要だな。




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あゆ、そして岡崎 [文化]

 映画「ヘルタースケルター」の主題歌が浜崎あゆみに決まったというニュースを聞いて思わず笑ってしまったが、もっと笑えることに浜崎あゆみは原作マンガの大ファンで、主役やる気まんまんで、「オールヌードも辞さない」と言ってたらしい。結局沢尻エリカがオールヌードになったわけだが、あゆの岡崎京子好きも意外かつ謎だよな。ところで、あゆと「ヘルタースケルター」のコラボレーションがあり得るのは21世紀も10年を経過したこの現代だからで、例えば岡崎京子がバリバリ現役だった90年代にはあり得なかったはず。何故なら当時はセンスのヒエラルキーがもっと厳然と存在したから。

 岡崎京子マンガのファンは浜崎あゆみなど当時聴かなかったはず。あ、当時浜崎あゆみデビュー前だから当然か。まあ、そうなんだけど、俺が問題にしてるのはセンスのヒエラルキーの問題で、岡崎京子はその頂点近くにおり、浜崎あゆみなんて底辺だろうと。両者が同じ作品で出会うなんて事は許されなかったはず。それが現在可能になったのは、ヒエラルキーが90年代、2000年代と次第に影薄くなり、ついに消滅・崩壊してしまったことを意味する。言い時代になったものだ。俺はこの時代を歓迎する。

 浜崎あゆみじゃダメで当時なら何がヒエラルキーの上位で映画の主題歌にふさわしかったかといえば・・・俺はステイタス主義者じゃないのでよくわからないけど、ルイ・フィリップとかじゃないの?当時ならね。じゃあ、今そういう「偉ぶりたい」人に向けてどんな音楽が、アーティストがふさわしいかというと・・・はっきり言って、該当するものがない。だからあゆでも別にいいのだ。

 センスのヒエラルキーが消滅した時代に岡崎京子マンガを映画化する意味なんてあるのか?と言う疑問もわくけど、はっきり言ってそれもないだろうな。まあここで何度も言ってるように日本映画界ではテキトーかつ不真面目なプロデュースが定着してるので、そういうバグも当然あり得る。日本映画のことだからもはや誰も文句言わないだろ。次は「オヤジギャル」がオシャレにゴルフする映画でも作ってみろ。

 まあ観に行かない映画の話だから基本どうでもいいんだけどね。

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「ニュートラルな演劇」の謎

 演劇嫌いなのに演劇を作っている俺。そんな矛盾の中を何十年も生き抜いてきた。観に行くお芝居の大半は興味をそそられないどころか不快極まりないシロモノ。演劇嫌いだからしょうがないな。

 だが、最近嫌いな演劇にも二種類あることに気づいた。「何かに特化された演劇」と「ニュートラルな演劇」。俺自身の活動は「何かに特化された演劇」の最たるもので、だから活動過程で義理やらつきあいやらで観に行くハメになるお芝居も「何かに特化されているな」という感想をもたらすものが多い。演劇嫌いの俺も時には「面白い」と思うことがたまにあるが、そういう場合は「何かに特化された芝居」を観ている。だが、世の中で興行される演劇の大半は「ニュートラルな演劇」に属する。「小劇場」なんて聞くと「何かに特化された芝居」をやりたい人が集まっている場なんじゃないかと最初思う人が多いんじゃないかなと思うが、何故か事態は全く逆で、商業とかよりもむしろ小劇場界こそ「ニュートラルな演劇」がひしめいている。

 「ハイレグ」とか「毛皮族」とか「シベリアなんとか」とか観に行っても全然面白いと思えず、何が面白くて何が面白くないかの趣味、価値観、思考様式が全く違う異人種達が作ってる作品にしか感じられないが、「何かに特化されているな」とは感じることが出来るので、場合によっては応援する立場に立つこともあると思うし、寿命が医学的な進歩かなんかであと500年ぐらい延長されたら何百年後かには趣味の変動の幅もあって「面白いかも」と思う一瞬が訪れるかも知れない。彼らの芝居を楽しめないのは単に趣味の違いの問題である。

 ところが、「ニュートラルな演劇」にはもっと根本的な違和感を感じる。大体そういうところに出てる役者はそれなりに上手い。セットもちゃんとしてる。ストーリーも練られている。いろいろとセンスがいい。「ニュートラルな演劇」とは演劇が持つエンターテイメント要素をバランスよく高めた芝居のことである。だが、俺は思うのだ。「バランスなんてどうでもいいだろう?」と。

 「身長2m以上の役者を集めた芝居です」なんて聞くと、「観に行ってもいいかな?」と思う。だが、「185cm以上です」なら、別に行きたいとも思わない。185cmだって結構長身だけどね。「体重150kg以上のデブだけを集めました」なら、ちょっとどんなものか興味がわく。「90kg以上」なら別にどうでもいい。

 では、「身長185cm以上で、90kg以上を集めました」ならどうか?多少興味はわくか?いや、わかないね。エンターテイメントは総合点じゃないんだよ。それに「視力2.0以上を集めました」が追加されてもダメだ。視力ならニカウさんレベルまでいかないと。

 ここでかつてどこかで読んだリセットNの夏井氏の発言を思い出す。彼は言う「奇形的な演劇はダメ」。彼が言う「奇形的な演劇」とは、「バランスを欠いて何かの要素が突出した演劇」のことだろう。要するに「何かに特化された演劇」のことである。彼はそれはダメであるという。気が合わないな。当たり前だ。

 ナイロンのケラは一時ことあるごとに「サブカルの復権」を口にしてた。演劇が「サブカルの復権」に寄与するとしたら、それは「何かに特化された演劇」意外にあり得ないと思ってしまうが、それは素人考えなのか?俺が一本だけ観たナイロン作品は完璧な「ニュートラルな芝居」だった。ギャグもまあ面白くてそこそこ笑えたし、セットも立派で「それだけを目当てに観に行くことはないが、高品質を感じさせる要素」に満ちあふれていたが、「それだけを目当てに観に行くことのない」要素がいくら集まっても観に行くことはない。俺はね。それは演劇じゃなくても同じ「それだけでは感動まではしないけどまあまあ優れていると感じさせるコード進行、メロディ、リズム、声質をバランスよく備えたアーティスト」のファンになることはない。とにかく「サブカル」とか言ってるのに作品を観た感想が「うーん、フツーだな」となっちゃうのが俺には不思議だった。俺にはね。

 ところで俺はナイロンを観たとき「うーん、フツーだな」と感じたのだが、実は「うーん、フツーだな」という感想を与えることは実はスゴイことなのである。何でもいいから目の前のCDでも漫画でも本でも手に取ってみよう。それはあなたにとって面白かったりつまらなかったり感動だったり不快だったりいろいろするだろうが、「うーん、フツーだな」なんて感想が胸に去来するだろうか?「うーん、フツーだな」なんて感想フツーは抱かない。「フツー」の作品は基本的に「フツーだな」などという感想をもたらさないのだ。

 「ニュートラルな演劇」のすごいところはそこである。「フツーな感じにしよう、バランスをよくしよう」という強い意図的なものがないとそれは出来上がらないのである。フツーに作ってはいけないのである。「ニュートラルな演劇」とは、「漫然と作ったらバランスよくなった芝居」ではなく、「バランスに命をかけた演劇」のことなのだ。漫然とフツーに作ると、ゴキブリコンビナートみたいになる、むしろ。人間の興味は「フツー」偏っているので、「フツー」に作るとそれは「自然と」「何かに特化される」のである。俺はそうならない「ニュートラルな演劇」を作れるその技量に畏怖する。それと同時にその「バランス」への情熱がどこから来るのか謎に思う。

 本谷とかノゾエとかメノジとか松尾人脈に属する人たちの芝居もおおむね異様にバランスがよい。特に本谷の「家族解散」ってのを俺は観たが、その「フツーさ加減」は異様である。「異様にフツー」って変だけどな。弟子がそんなだから俺は大人計画を観に行くことはないだろうな。

 あと、アングラとか聞くと「特化されまくったすさまじい軍団」って印象をついつい抱いてしまうが、たしかに寺山とか唐とか水族館劇場とか該当しまくる。今は丸くても過去の記録にアプローチすると絶対に「バランスに命をかけた芝居」などしてない。ところが、利賀で観た「スコット」なるかつて4大アングラと呼ばれた中の一翼だった人たちのお芝居。これがまたニュートラルの極み。セットも豪華、コミカルな笑いもあり、上手いのか下手なのか通常の意味でどうなのかはわからないが長年の研鑽の後を感じられる乱れない演技。だが、上質なそれらの要素が集まった作品がもたらす印象は「フツー」だった。俺の中での「アングラ演劇」の定義を大いに揺るがす結果となった(嘘。あらかじめ予想はついてた)。アングラだから何かに特化される演劇をしているなんてことは全くないのである。

 なんか演劇を作ったり観たりしている人の間で強烈な「バランスへの吸引力、魅惑」が作用しているようなのだ。俺には分からない。20年近くやってきて分からないのだからあと2000年ぐらい寿命が延長されないと俺には分かることはないだろう。

 

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日本映画の正しいあり方について [文化]

 ゴキ女優の若人から「ボーイズオンザラン」のドラマが始まるという話題を振られた。若人は原作になっているあのマンガのファンなのだろうか?まあそれなりに面白いマンガだとは思ったが、「ボーイズオンザラン」よりもっと大好きな「宮本から君へ」からのあからさまなパクリがあるので腹立った。そんなマンガ。映画版はポツドールの三浦さんが監督して話題だった。ドラマは参加してないのか?

 で、どう答えた方というと、「関ジャニの村上なんとか君が出てるんなら、50%村上なんとか君のアップでいいんじゃね?」

 50%村上なんとか君の顔のアップ。村上なんとか君のいろんな表情を堪能。のこり50%のうち半分の25パーセントは村上なんとか君の全身像。いろんなポーズ。のこり25パーセントで村上なんとか君が出ない脇役のシーン。ビデオに録った村上なんとか君ファンには早送りで流されるが、一応ストーリーを説明するために入れておく。ジャニドラマなんてそれでいいだろ?

 そこまでやれば原作ファンも「やれ原作との違いが云々」とか騒ぎ立てはしないだろ?中途半端に真面目に作ろうとするからファンに怒られる。なんのためにそのドラマが撮られているか分かってないやつが足を引っ張っているのだ。ジャニファンのためのドラマなのにそういう割り切りで作ろうとしないから怒られる。バカにされる。まあ俺は原作ファンじゃないから怒らないけど。

 ついでに言えばキムタクの「ヤマト」も75%キムタクのアップでいいよな。キムタクのファン以外には用事ないんだから。ジャニじゃないけど、「カイジ」も75%藤原竜也のアップでいいし、「カムイ外伝」も、えーと誰だっけ?誰だか忘れたけどカムイ役のアップの連続で埋め尽くしちゃえよ。

 日本映画とか、そもそもそういう文化だと認知させちゃえよ。どうせ現時点でもそのぐらいの期待しか持たれてないんだから。かつてはもう少し違ったかも知れない。芸術だったかも知れないし、エンターテイメントの多様な可能性を開拓し、追求する場だったのかも知れない。もうそういう時代はとっくに終わったのに今でもそうだ、そうでなくてはならないと思っているバカがむしろ今の日本映画をダメにしているとは思わないか?

 白戸三平のファンが間違って観に行って、「先生の世界観がぶち壊された!」なんて起こることがないよう、映画とかドラマなんてそもそもそういうものという共通認識を形成するべきだな。誰も怒らなくていいように。

 原作が「ヤマト」だろうが「カイジ」だろうが、「○○くんを観に行ったのにシーンの半分も違う人が出ている!」とファンがちゃんと怒れるような空気をつくるべき。これからの日本映画、ドラマの可能性はそれしかない。

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いっそのこと福島第2原発稼働させろ [社会]

 数日前より日本中の原発が停止している。去年の事故以降原発は恐いのでほっとして、このままずっとそうならいいのにと願っている人も多いだろう。まあ稼働してなければ地震が来ても平気なわけではない。

 これから夏を迎えるが、停電なしに電力消費量ピークの季節を超えることは出来るだろうか?電力は原発などなくても余り余っているという人たちがいる。曰く、「原発なしでは電気が足りなくなる」などというのは、東電の作った真っ赤な嘘であると。原発の利権で甘い汁を吸いたい奴らが垂れ流すガセであると。東電に隠蔽体質があるというのは俺も認めるが、何もかもが嘘で電気は余り余ってるなんてのは、個人的には信用しがたい。特にその手の主張をする人たちにユダヤ資本がどうのとか陰謀論をふりかざす輩が多いのでなおさらである。そういう過激な反原発派は東電幹部以上に信用しがたい。やはり電気は足りるか足りないかギリギリなのでは?

 もし足りなかったらどうするか?節電。結構なことである。俺も今自分の部屋は劇団の資材で物置状態になっていて、ロフトで寝食をとっている。エアコンはロフトには効かないので使用しないことだろう。灼熱地獄に耐えて、節電に貢献だ!

 だが、節電してもまだ足りなかったら?もう少し足りなかったら?文明を根本から変革する?新しい発電方法の開発導入?長いスパンでは考えて行かなくてはならない方法かも知れないが、今夏には間に合わない。数ヶ月後のことを考える上では現実的じゃない。

 今止まってる原発のどれかを結局稼働させなくてはならないとなったとき、どの原発を稼働させればいいか?一番無難なのは福島第2原発だろう。世の中の空気に一番逆らう決断で、「福島第2だけはダメ」と叫ぶ人も多いだろうが、これには理由がある。

●その1、第2は第1と比べて地震、津波に強いようだ。去年の地震の同レベルのやつが来てもおそらく持ちこたえるだろう。福島以外の原発はどうか?非常に不安である。前例ないし。福島第2は実績を作ってしまったのだ。色んな偶然が重なってまぐれで持ちこたえたのかも知れないが、それにしても耐震、対津波対策がほかより立てやすいのではないか?

●その2、地学上の理由。地震はどういうメカニズムで起こるか?一概には言えない複雑なメカニズムがあるとは思うが、あえて簡略化して言えば、地中のあるポイント(プレートとか)にストレスが蓄積し、それが許容限度を超えたときに地震が発生する。だから大地震が起きたばっかりの地点はしばらくは大丈夫・・・なんて簡単に言い切ってしまえるものではないが(メカニズムは複雑なので)、今後数十年〜数百年最も大地震が来る確率の低いエリアは去年来たばっかりのエリアだろう。人情として、来たばっかりの地方が地震の不安も大きく対策も重点的になされるが、それは正しいとは言えない。

●その3,これが一番非情で市民の反感を買いそうだが、万一地震が起きてしまったときのダメージとパニックに関して。第2原発周辺はもう余り人が住んでいない。避難してどっかに行ってしまったのだ。既に避難して住民が減っているエリア。そんなエリアこそパニックとダメージを最低レベルの抑えるのに最適なエリアではないか?

 以上の3点により、もし日本のどこかの原発を再稼働させざるを得ないとしてもっとも最適なのは福島第2原発ってことになるだろう。だが、おそらく政治も電力会社もそんな決断はしないだろう。人間には感情ってものがあるからだ。どれかを稼働させるってなったら、「この数百年、千年で地震の記録があまりない地域」の原発を選びたくなることだろう。だが、場合によってはそれが一番危険かも知れない。

 感情論は危険な側面を持つが、人間の本性としてそれから逃れることは出来ない。理性はそんなに強くないのだ。

タグ:原発 福島
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今更ながら紅白歌合戦の感想

つっても紅白放映中は仕事中だったのでほとんど観てない。合間に休憩所みたいなとこ行ったらテレビついてて紅白流れてた。椎名林檎のところだけ見た。振り付けが苦手なタイプだなー、と思ったらやっぱりコンテンポラリーだった。 

あの手の人たちが仲宗根梨乃が振りつける韓流アイドルのダンスの悪口とか言ってんだろうな。「レベル低いねー」とか言って。俺に言わせればちゃんちゃらおかしい。 

「かっこいい」とはどういうことか?が分かってないもしくは関心ないけれど気取りたい気持ちだけは人一倍の人たちが集まる現場、それがコンテンポラリーダンスの世界。 

というわけで今回の紅白歌合戦の感想は「俺はやっぱりコンテンポラリーダンスが嫌い!」

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